群馬県伊勢崎市に鎮座する「大雷神社」に参拝してきました。
「おおいかづちじんじゃ」や「たいらいじんじゃ」とも読むようです。
こちらの神社は伊勢崎市の北部、旧赤堀町にありました。
国道50号線にある「西久保」という交差点を少し南に行った所に神社は鎮座しています。
近くには、群馬銀行やJAがありました。
駐車場は神社の北側、社務所の後方にスペースがありました。
自動車は、数台は停められそうです。
最寄り駅は、JR両毛線「国定駅」になります。
徒歩では、かなりかかりそうです。
こちらの神社の由緒は、以下の通りです。(群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著 伊勢崎佐波の神社誌より)
「当社の創建は、平安時代の中期の頃、藤原秀郷五世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行が渕名の荘を領するに及び、神明を尊崇して社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝えられ、以来当社に寄せる代々の崇敬篤かったが、後に渕名氏が滅亡して由良氏の領地となるに及び、更に社殿の修理が為された。
光厳天皇の御代の元弘三年(1333)五月新田義貞が鎌倉幕府追討の挙兵の際、当社に戦勝祈願したと伝えられる。
また、正親町天皇の御代の元亀二年(1571)、領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座した。
その後、江戸時代にに至り、光格天皇の御代の寛政十一年(1799)、領主の加納氏が本殿・拝殿共に改築し、赤堀十ヶ村の総鎮守となった。
明治六年、さらに勢多郡の野村・磯村両村をも併せ、十二ヶ村の郷社に列せられて今日に至る。」
一の鳥居です。

こちらが社号標になります。

鳥居をくぐります。
こちらは、二の鳥居です。

手水舎です。

先に進んで行きます。
こちらは三の鳥居です。

こちらの神社は、神職が常駐していないので、何だか雰囲気は良くないです。
境内の右側には「宇氣母智神」と刻まれた碑がありました。

いわゆる「保食神」と思われます。
稲荷神でしょうか。
こちらはなんでしょうか?

何かの碑なんでしょうか?
何も刻まれてはいないような気がします。
それとも「巨石信仰」の一種なのか、それとも「力石」なのか?続きを読む
「おおいかづちじんじゃ」や「たいらいじんじゃ」とも読むようです。
こちらの神社は伊勢崎市の北部、旧赤堀町にありました。
国道50号線にある「西久保」という交差点を少し南に行った所に神社は鎮座しています。
近くには、群馬銀行やJAがありました。
駐車場は神社の北側、社務所の後方にスペースがありました。
自動車は、数台は停められそうです。
最寄り駅は、JR両毛線「国定駅」になります。
徒歩では、かなりかかりそうです。
こちらの神社の由緒は、以下の通りです。(群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著 伊勢崎佐波の神社誌より)
「当社の創建は、平安時代の中期の頃、藤原秀郷五世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行が渕名の荘を領するに及び、神明を尊崇して社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝えられ、以来当社に寄せる代々の崇敬篤かったが、後に渕名氏が滅亡して由良氏の領地となるに及び、更に社殿の修理が為された。
光厳天皇の御代の元弘三年(1333)五月新田義貞が鎌倉幕府追討の挙兵の際、当社に戦勝祈願したと伝えられる。
また、正親町天皇の御代の元亀二年(1571)、領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座した。
その後、江戸時代にに至り、光格天皇の御代の寛政十一年(1799)、領主の加納氏が本殿・拝殿共に改築し、赤堀十ヶ村の総鎮守となった。
明治六年、さらに勢多郡の野村・磯村両村をも併せ、十二ヶ村の郷社に列せられて今日に至る。」
一の鳥居です。

こちらが社号標になります。

鳥居をくぐります。
こちらは、二の鳥居です。

手水舎です。

先に進んで行きます。
こちらは三の鳥居です。

こちらの神社は、神職が常駐していないので、何だか雰囲気は良くないです。
境内の右側には「宇氣母智神」と刻まれた碑がありました。

いわゆる「保食神」と思われます。
稲荷神でしょうか。
こちらはなんでしょうか?

何かの碑なんでしょうか?
何も刻まれてはいないような気がします。
それとも「巨石信仰」の一種なのか、それとも「力石」なのか?続きを読む
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