群馬県太田市の西部に神社は鎮座していました。
国道354号線の少し南にありました。周辺には神社の看板がでてきますので、わかりやすいかもしれません。
最寄り駅は、東武伊勢崎線「細谷駅」になります。
駐車場は、神社の西側にありました。自動車は、かなりの台数が停められそうです。
こちらの神社の由緒は、次の通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「群馬県太田市細谷町に鎮座。祭神は宇迦之御魂命・猿田彦命・大宮能売命・大国主命・少彦名命ほか五柱。旧暦二月初午に火渡獅子舞がある。
天治二年(1125)に源義国が国司として赴任の際に鎮祭し、承安四年(1174)に源義経が京都の伏見稲荷を勧請したと伝える。新田義貞は戦勝の奉賽として社領を寄進。領主・城主ほか豪商三井家が厚く信仰した。」
また、案内板によると次の通りです。
「当神社は、往昔、宿窪明神(宿穴伏明神)と号し、上野国神名帳に名を留める古社で、創建は古代と伝わる。
当地細谷は、古代は蛇川両縁の窪地なるために宿窪と称し、のちに地勢恰も山間の谷の如し、故に細谷と改称すと地誌にある。
天治二年(1125)源義国公は、館の丑寅に当る当社を鬼門鎮護の霊場とし、源氏一門守護の氏神を鎮祭した。この時をもって当社御鎮座とした。義国公は、皇統第五十六代、清和天皇の子孫にして、清和源氏第五代源義家の嫡子である。義国公の長子は新田家の開祖、新田義重であり、次子は、足利家の開祖、足利義兼である。故に、義国公は、中世以降を司った源家一門の始祖といわれる。承安四年(1174)源義経公十五歳にして源氏再興を志し、奥州へ下向した。その折、当社に仮泊し、深更社殿の深奥に瑞光をみた。そして自身の曾祖父源義親の弟義国公ゆかりの社と知り、元服の時、冠(鳥帽子)の中に勧請してきた伏見稲荷大社のご分霊を鎮祭した。以来、伏見稲荷大社の分祀社として崇敬されるようになった。新田義貞公は若年の頃より当社への崇敬厚く、常用の四十二間筋兜(国宝)に稲荷大明神の神名を刻み、数多の神領、宝物を奉納し、年中五十三度の祭禮を当社にて執行した。元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げたとき、神前に戦勝を祈願し兜の中に神霊の来臨を請えば、種々不思議の感応があったという。以来新田家は北条氏を滅ぼす偉功をあげたのは、当神社の神威によるものと崇敬益々深厚にしたという。
当社は稲荷大明神と称したが、村人は義経公、義貞公の故事を尊び、江戸時代中期より『冠稲荷』と呼び習わした。この由縁をもって、明治維新の折、名を冠稲荷神社と改めた。」
大鳥居です。
初詣ら祈祷祈願を受ける参拝者も多く、また御朱印を頂く方も列を作っていました。
御朱印は、社殿右側の「御朱印筆耕処」で頂きました。御朱印代は300円です。書き置きの御朱印があり、御朱印代は500円です。