栃木県小山市に神社は鎮座していました。
こちらの神社の由緒は、次の通りです(案内板による)。
「網戸神社由緒
当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか未だ明らかではないが社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(806)10月28日である。
醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが詳らかではない。
天慶二年(939)、藤原秀郷卿は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。
源頼朝も、文治三年(1187)、小山政光の妻、寒河尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋『左二ツ巴』を、当社の神紋としている。
この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。
江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政、文政にかけて社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。
かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。
明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。
大正三年(1914)5月20日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地千古の社より、旧城内に遷宮した。
この年の8月19日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高場の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等を共に境内神社とした。
神事は、陰暦2月15日(湯立)、6月15日(八坂神社の祇園祭)、9月13日(十三夜)及び陽暦11月27日(八郷廻りの御出)、12月23日(稲荷神社の冬至祭)である。
神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。
天地のつきることなく緑なす
このふるさとの神をしそおもう」
思川の網戸大橋と乙女大橋の間、川の堤防沿いに鎮座していました。
10月22日の即位礼正殿の儀の日、雨が降っているなか参拝でした。
雨の日でしたが、ひっきりなしに参拝者が訪れていました。
社殿には御朱印のメニュー?がありました。
御祭神札も一緒に授与されておりました。御朱印+御祭神札でも初穂料300円です。