群馬県の西毛地域の甘楽郡甘楽町の南部にある「鷲
曹洞宗に属するお寺になります。
お寺までは、看板が出ていますので、わかりやすいかもしれません。
お寺専用の駐車場はありました。
自動車は、数十台位は停められそうです。
お寺は山の中腹にありますので、鳥の鳴き声が聞こえ、緑が綺麗で、とても良い雰囲気でした。
由緒によると、創建は不明になりますが、現在のお寺より南に4キロ行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵が始まりとされています。
お寺の境内には、弘安三年(1280年)、正安四年(1302年)、延慶二年(1309年)の板碑が建立されているので、その時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていました。
宝徳二年(1450年)に、領主の小幡実高(おばたさねたか)が中興開基となり、茨城県東昌寺の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗として再興されました。
小幡氏が滅ぶと、元和2年(1616年)に織田信長の孫「織田信良」が小幡藩の藩主となり、菩提寺を宝積寺と定めたそうです。
こちらが本堂になります。
本尊である「釈迦如来」が祀られています。
春の季節には、本堂内に入り参拝できますが、参拝した日は残念ながら中に入ることはできませんでした。
境内の本堂の前には、「菊女観音」が祀られています。
戦国時代の国峰城主の小幡信貞に寵愛された「お菊」が、奥方や他の腰元から嫉妬をされて、無実の罪に陥れられてしまい、菊が池で蛇や百足を入れた所で「蛇責めの刑」にさせられてしまったそうです。
時の宝積寺住職がお菊の命乞いをしてめ聞いて頂けず、刑は執行されてしまいました。
お菊の悲鳴が周辺まで聞こえました。どれだけ悔しかったでしょう・・・
通りかかった小柏源助が助け出しましたが、残念ながら亡くなってしまったそうです。
お菊を落とし入れた女性には不幸が訪れました。
その後、追善供養が行われ、「菊女観音」として祀ることになりました。
いわゆる「番町皿屋敷」のモデルになった出来事だそうです。
「南無菊女観音 南無菊女観音 南無菊女観世音菩薩」と唱えると菊女観音の御加護があるそうです。
本堂の裏手には、歴代の小幡氏のお墓がありました。
それほど大きくはないお墓です。続きを読む