群馬県太田市の中でも旧新田町に神社は鎮座していました。
神社専用の駐車場は、門前にありました。
こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「群馬県新田郡新田町市野井の旧県社。祭神は大穴牟遅神・品陀和気命・建御名方神他二十二柱。例祭はは4月15日、11月20日。5月8日に新田義貞挙兵記念祭がある。
天喜年間(1053〜1058)に源義家が奥州征討にあたり戦勝を祈願し、元弘三年(1333)の新田義貞鎌倉攻めでは当社で義旗を挙げた。
生階とも称し新田郡内に分社が多くその本社である。」
また、東京堂出版刊「神社辞典」によると次の通りです。
「群馬県新田郡新田町市野井。旧県社。大穴牟遅神・品陀和気命・建御名方神他二十二柱の神を祀る。
創祀は不詳であるが『上野国神名帳』所載の生階明神に当てられる。源義家は奥州征伐に際し戦勝祈願したと伝え、釜倉時代以後、当地を領有地とした新田氏の崇敬は篤く刀剣、軍旗、絵馬などを奉納している。『太平記』が記すに元弘三年(1333)護良親王の令旨により北条高時追討のために市野井郷総鎮守にて挙兵戦勝祈願したのは当社であり境内は國の史跡に指定されている。
当郡内には同名社が多く当社を本宮とし、古来産土神として崇敬が篤い。
宝物としては神鏡、古鏡、軍旗、寄進状などを蔵す。
例祭は4月15日、11月20日。5月8日には新田義貞挙兵記念祭が実行力され、小学生十人が鎌倉方向に矢を放つ鏑矢祭が執行される。」
鳥居になります。
銅像は盗難にあい、現在はありません。犯人は見つかったのかな?
大己貴命を主祭神として祀られています。
上野國神名帳には「従三位生階明神」とあるので、平安時代には神社はあったことになります。
上野国志には「一説には生品社は、平親王将門の弟、御厨三郎将頼を祭る。将門伏誅の後、其の霊祟をなす。依て将門を武州に祀りて神田明神と称し、将頼を上州に祭りて生品明神と称す。共に九月十九日を祭日として之を祭ると生品旧縁起に見えたり」とあります。
また、言い伝えによると
「豊城入彦命が上野の太守となり、新田地方の開発に先立ち、大己貴命を祀り、『生階明神』と号した。いつしか『生品』と書くようになった。天喜年間(1053年〜1058年)に源義家は、奥州の賊徒を退治するため、生品神社に参詣し、戦勝を祈願。
元弘三年(1333年)五月八日、新田義貞が北条高時を追討するため、神社前に義旗をたて、鎌倉へと進軍した。」
とあります。
社殿内部です。
普段は非常駐の神社ですが、参拝したときは神社関係者(宮司さんか?)がいらっしゃり、御朱印は御朱印帳に直接墨書きが頂けました。恐らくは5月8日の例大祭の準備があったのかなと推測します。ゴールデンウィーク中はいらっしゃるのかなとは思います。御朱印を頂くのはこの時期かもしれません。
神社名:生品神社(いくしなじんじゃ)
鎮座地:群馬県太田市新田市野井町646‐1
祭 神:大穴牟遅神 品陀和気命 建御名方神 他二十二柱
社格等:旧県社