浅草の対岸、隅田公園内に鎮座していました。言問橋を渡ると神社の北側に着きます。
最寄り駅は、東武伊勢崎線「浅草駅」・「東京スカイツリー駅」になります。
こちらの神社の由緒は、次の通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「【牛嶋神社】
東京都墨田区向島の旧郷社。祭神は須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王之命(清和天皇第七皇子)。例祭は9月15日。
貞観二年(860)に慈覚大師が神託により須佐之男命を勧請したと伝える。のちに他の二神を合祭し王子権現と称した。
最勝寺が別当として奉仕し管理した。牛の御前と呼ばれる。」
また、東京堂出版刊「神社辞典」によると次の通りです。
「【牛島神社】
東京都墨田区向島。旧郷社。須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王を祀る。
社伝によれば、貞観二年(860)慈覚大師が神託により須佐之男命を郷土の守護神として勧請、後に天之穂日命を合祀し、更に清和天皇の第七皇子貞辰親王が当地で没したのを、大師の弟子、止本阿闍梨がその神霊を祀り『王子権現』と称した。源頼朝は、尊崇篤く養和元年(1181)社殿を造営し神領を寄せ、天文七年(1538)御奈良院より勅額を賜ったと伝える。
明治維新以前は、牛宝山明王院最勝寺が別当として奉仕し『牛の御前』と称していたが、神仏分離後、現社名に改められた。
例祭9月15日。」
12月3日に参拝いたしました。まだ七五三の参拝者がいらっしゃいました。
「包丁塚」だそうです。
包丁の供養塚なんでしょうか?
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑になります。
「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹 談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(1743)生まれ、本所相生町五丁目(現緑一丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから『鑿釿言墨曲尺』とも号しました。
元禄時代にはひとつの話芸として確立した落語もその後衰えていましたが、天明四年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の『噺の会』を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政五年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)」
写真を撮ろうとしたら、電池切れのため鳥居や社殿は撮れませんでした。
御朱印は授与所にて頂きました。御朱印代は300円です。
神社名:牛嶋神社
鎮座地:東京都墨田区向島一丁目4‐5
祭 神:須佐之男命 天之穂日命 貞辰親王之命
旧 称:牛御前社
社格等:旧郷社 本所総鎮守