群馬県高崎市の北にある榛東村にある「船尾山 等覚院 柳澤寺」に参拝してきました。
天台宗に属するお寺になります。
これといった最寄り駅はないので、自動車で行かれた方が良いかもしれません。
駐車場は山門の左側にありました。
自動車は、数十台位は停められそうです。
こちらのお寺の由緒は以下の通りです(お寺のホームページより)。
「この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」と言う、一章の記載です。
更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。
そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
天台宗宗祖傳教大師の東国順境のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って、榛名山中の船尾の峰に、妙見院息災寺と言う巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。
本尊千手観音をお祭りし、子授け観音として有名になりました。
その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が、霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、
一子相満若が産まれました。
常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。
やがて相満は立派な若者に成長しました。
ある時、榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日に
さらってしまいました。
父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで
隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。
寺側との行き違いから争いとなり、全山消失してしまったそうです。
その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。
それから後を追って、池に身を投げて死んだと言う事です。
神道集の説話と、船尾山縁起のそれとは、違っていますが、昔、榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う、土着の古伝説を基盤に、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が、多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。
天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として、中世には、学僧も多く出現したといいます。
戦国時代末、北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を消失しました。
江戸時代に入り、天海僧正、高崎城主 安藤右京進などの尽力により、朱印地三十石を賜り、再建に着手。
貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
現在、境内地約三万平方米。
戦後、参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立は、その中に散在する諸道に色を添えています。
諸堂並びに庫裡は、大正元年〜七年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが、破損著しく、昭和55年より、2年にわたり、大修理がなされました。」
御朱印を頂いたのはだいぶ前ですが、平成25年4月6日に再度参拝してきました。
境内の桜は満開でしたが、散り始めていました。
やはり、写真撮影をしている方々もいらっしゃいました。
こちらが全景です。
随分広いです。
こちらが山門になります。
なかなか大きな山門です。
仁王像が配されているので、仁王門と呼んでもいいかもしれません。
山門に掲げられた扁額です。
誰が書いたのでしょうか?
山門をくぐると、碑がありました。
よく見ると、庚申塔のようです。
また、お地蔵様や羅漢様がいらっしゃいました。
先に進むと、左側に「鐘楼」がありました。
また、宝篋印塔がありました。
いつごろのものなのでしょうか?
こちらが「二十一夜念仏供養塔」になります。
こちらもいつごろのものなのでしょうか?
観音堂の周辺には、十三仏の像が配されていました。
そのなかの一佛です。
不動明王立像です。続きを読む
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