群馬県前橋市にある「筑波山 来迎院 無量寿寺」に参拝してきました。
真言宗豊山派に属するお寺になります。
群馬県前橋市二宮町に鎮座する「二宮赤城神社」の近くにお寺はありました。
これといった最寄り駅はありません。
できれば自動車で行かれた方が良いかもしれません。
駐車場は、参道の右側にありました。
自動車は、10台以上は停められそうです。
「上毛新聞社刊 ぐんまのお寺 真言宗機廚砲茲譴弌⇒浬錣麓,猟未蠅任后
「寺伝によれば、古くは修密山来迎院無量寿寺と称し、延喜年中(901〜923)の開基とある。
名応二年(1493)隆舜上人の中興開基となり、文亀三年(1503)のころより野州小俣の鶏足寺の末寺となる。
その後延宝四年(1676)三月に暴風雨によって堂宇が大破する。
将軍綱吉の在位の天和二年(1682)に、江戸護持院(後の護国寺)住職隆光僧正が当寺に隠居転任し、その際に十一面観音(市指定文化財)、絹地不動尊などを持参したという。
隆光僧正は、時の姫路城主酒井親清(雅楽頭酒井氏は天和年中=1681〜1684=には前橋城主で前橋五代の忠挙の代、時の姫路城主は、のちに酒井氏と交代で前橋城主となる松平氏)の帰依をうけ、当山を再建する。
親清の二男の親光は僧正の徒弟となり、憲光法印と号して当寺に住したという。
その頃、親清の孫の忠清が当地の領主に任ぜられ、その母が常州の筑波山を信仰していたことから、当山の境内に山を築き筑波両神を祭ったという。
このときに、鶏足寺末から江戸護国寺末となり、山号を筑波山にしたという。」
こちらが入口になります。
とくに山門はありません。
寺号標になります。
山号が「筑波山」になりますが、由緒になった酒井氏の筑波山信仰の古墳?が入口の右側にありました。
国道17号線沿いにあるといった感じです。
登れるようですが、私は行きませんでした。
参道を進みます。
こちらは山門なのでしょうか?
山門の右側には、地蔵菩薩や諸佛が祀られています。
境内の左側には、弘法大師像がありました。
やはり真言宗のお寺になります。
こちらが観世音菩薩になります。
(´人`)
境内の中央には松の木がありました。
いわゆる御神木的な役割なんでしょう。続きを読む
真言宗豊山派に属するお寺になります。
群馬県前橋市二宮町に鎮座する「二宮赤城神社」の近くにお寺はありました。
これといった最寄り駅はありません。
できれば自動車で行かれた方が良いかもしれません。
駐車場は、参道の右側にありました。
自動車は、10台以上は停められそうです。
「上毛新聞社刊 ぐんまのお寺 真言宗機廚砲茲譴弌⇒浬錣麓,猟未蠅任后
「寺伝によれば、古くは修密山来迎院無量寿寺と称し、延喜年中(901〜923)の開基とある。
名応二年(1493)隆舜上人の中興開基となり、文亀三年(1503)のころより野州小俣の鶏足寺の末寺となる。
その後延宝四年(1676)三月に暴風雨によって堂宇が大破する。
将軍綱吉の在位の天和二年(1682)に、江戸護持院(後の護国寺)住職隆光僧正が当寺に隠居転任し、その際に十一面観音(市指定文化財)、絹地不動尊などを持参したという。
隆光僧正は、時の姫路城主酒井親清(雅楽頭酒井氏は天和年中=1681〜1684=には前橋城主で前橋五代の忠挙の代、時の姫路城主は、のちに酒井氏と交代で前橋城主となる松平氏)の帰依をうけ、当山を再建する。
親清の二男の親光は僧正の徒弟となり、憲光法印と号して当寺に住したという。
その頃、親清の孫の忠清が当地の領主に任ぜられ、その母が常州の筑波山を信仰していたことから、当山の境内に山を築き筑波両神を祭ったという。
このときに、鶏足寺末から江戸護国寺末となり、山号を筑波山にしたという。」
こちらが入口になります。
とくに山門はありません。
寺号標になります。
山号が「筑波山」になりますが、由緒になった酒井氏の筑波山信仰の古墳?が入口の右側にありました。
国道17号線沿いにあるといった感じです。
登れるようですが、私は行きませんでした。
参道を進みます。
こちらは山門なのでしょうか?
山門の右側には、地蔵菩薩や諸佛が祀られています。
境内の左側には、弘法大師像がありました。
やはり真言宗のお寺になります。
こちらが観世音菩薩になります。
(´人`)
境内の中央には松の木がありました。
いわゆる御神木的な役割なんでしょう。続きを読む
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