群馬県富岡市に神社は鎮座していました。
最寄り駅は、上信電鉄「上州一ノ宮駅」になります。
駐車場は門前にありました。できれば「一ノ宮北」という交差点を北へ行く道を進み、信号機を過ぎ、すぐに左へ行く道がありますので、それを進むと神門が右側にあります。神門の脇に自動車は停められます。
こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「群馬県富岡市一ノ宮の旧国幣中社。延喜式内名神大社。神社本庁別表神社。祭神は経津主命・比売大神。例祭は3月15日。3月14日と12月12日に御戸開(みとびらき)神事がある。13年ごとに行われる式年遷宮祭はこの神事に合わせて行われる。正月三日に水的(みずまと)神事、同15日に御筒粥神事、4月15日に流鏑馬祭、7月7日に御田植え神事、12月8日に鹿占神事、同11日に神機織神事がある。安閑天皇元年3月15日に創祀されたと伝える。
経津主神は石上神宮の祭神であるが、当社付近に物部氏が居住し、隣接地域には石上部君が存在した。また渡来文化である絹織りの技術が当地にもたらされたことを物語るは、赤城神が南天竺狗留吠国の好美女から機織りの絹筬(きぬおき)を借りたという説話である。貫前神は天安三年(859)に従四位下に昇叙され、延喜十六年(916)には従二位となった。上野国の一の宮となる。
徳川家康が当社を改修してから、三代将軍の家光が寛永十二年(1635)に社殿を造営した。元禄十一年(1698)に綱吉がさらに改修した。」
また、國學院大学日本文化研究所編「神道辞典」によると次の通りです。
「〈旧称〉貫前神社、抜鉾神社
〈祭神〉経津主神、比売大神
〈指定文化財〉本殿、拝殿、楼門、鏡三面、棟札(重文)
〈例祭日〉3月15日 〈神事〉申年式年遷宮祭、御戸開祭(3月14日・12月12日)、水的神事(1月3日)、御筒粥神事(1月15日)、流鏑馬祭(4月15日)、田植え神事(7月7日)、鹿占(かうら)神事(12月8日)、神機織(かんはたおり)神事(12月11日)
〈由緒〉式内名神大社。上野国一宮。貞観元年(859)正月、従四位に叙され、延喜十六年(916)には従二位に進む。『貫前』は『延喜式』神名帳に『或いは抜鋒(ぬきさき)に作る』との注記があり、『上野国神名帳』(一宮本)や『神道集』には『抜鉾』とも表記する。中世・近世には抜鉾の表記が一般的であった。物部氏系の経津主神を祀る貫前神社と渡来人系の比売大神を祀る抜鋒(抜鉾)神社とは別個の神社であったとする説もあり問題を残す。
神仏分離以前は天元四年(981)開基と伝える別当の光明院をはじめ神宮寺が多く、現在も境内に堂舎の遺跡が多数散在する。
江戸時代には百七十六余の朱印領を有した。現在の社殿は徳川家光の造営。
養蚕・農業の神として崇敬される。
秘中の神事とされる御戸開祭をはじめ特殊神事が多い。
〈旧社格〉国幣中社(明治四年)」
こちらの神社は、延喜式内社で上野国一宮になる神社です。
朝廷や武家からも崇敬されていたそうです。
神門になります。
神門を入ると石段は下へ向かい、社殿を下りながら見るという「下り宮」になります。
「日本三大下り宮」になります。
社殿は「貫前造」という特殊な社殿構造になります。
本殿は2階建てだそうです。
月読宮がありました。
仮殿地になります。
杉の木の香りがします。式年遷宮が終わりましたので、神様はもとの宮に遷座はされたと思いますが、こちらにはまだいらっしゃるのかな?
御朱印は境内の右側にある「授与所」で頂きました。
昨年式年遷宮でしたので、記念印が押されていました。御朱印代は500円でした。小さな由緒書き付きです。
パンフレットの由緒書きは100円になります。
御守りや御神札(一体1,000円)といった授与品はありました。私は、御守りを一体(700円)頂きました。
宝物館があり拝観ができます。
御神籤を引き、「大吉」を引き当てました。前回は世良田東照宮で御神籤を引き「大吉」でしたので、二週連続大吉でした。
神社名:一之宮貫前神社
鎮座地:群馬県富岡市一ノ宮1535番地
祭 神:経津主命 比売大神
社格等:延喜式内社(名神) 旧国幣中社 別表神社
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