まほろば御朱印紀行

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。

東松山市

巌殿観音正法寺 中武蔵薬師霊場の御朱印(埼玉県東松山市岩殿)5

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 埼玉県東松山市にお寺はありました。

 最寄り駅は、東武東上線「高坂駅」になります。徒歩では1時間位かかるそうですが、高坂駅西口より川越観光バス「鳩山ニュータウン」行に乗車、「大東文化大学」にて下車して、お寺までは徒歩で約10分位かかるそうです。

 お寺専用の駐車場は、門前にありました。自動車は5〜6台位は停められそうです。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(雄山閣出版刊『日本名刹大事典』による)。
「真言宗智山派、岩殿山、修善院。別称は岩殿寺、通称は岩殿観音。坂東三十三観音霊場の十番札所。本尊は千手観音。もと観音堂の別当寺。
 『巌殿山千手観世音来由緒記』によれば、養老二年(718)沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音を安置し、傍らに正法庵を結んだのが開創で、後に坂上田村麻呂が奥州征討の途次に比企山の悪竜を千手観音の霊験で退治し桓武天皇十五年に伽藍を建立した。暫くして堂舎は零落したが、正治二年(1200)源頼朝の志をついだ平政子が再興し、左衛門督入道を別当に任じたと伝える。古くは比叡山末の寺院で、堂塔のほかに多数の坊舎を擁する大寺であったらしい。しかし、天文頃から勝呂大智寺(現坂戸市)が別当正法寺を兼務し真言宗に改めた。永禄年中に戦乱で諸堂を失ったが、天正二年(1574)までに大智寺俊遍の弟子栄俊が護摩堂などの伽藍を復興して正法寺の中興開山となり、真言法流無量寿院流(松橋流)を汲む寺院として再興され一山内の支配権を確立した。天正十九年(1591)11月、徳川家康から観音堂領二十五石を寄進された。
 寛政七年(1795)『新義真言宗本末帳』によれば本寺醍醐寺無量寿院、門徒六ヶ寺。
 年中行事に、田村麻呂の悪竜退治に因む7月1日の『けつあぶり』がある。
 六面幢は県文化財。」

 また、東京堂出版刊「古寺名刹辞典」によると次の通りです。
「埼玉県東松山市岩殿1229。巌殿山と号し、岩殿観音の通称がある。真言宗智山派。坂東十番霊場。
 養老二年(718)沙門逸海が正法庵という草庵をこの地に結んだのが始まりという。また役行者が開いた修験の寺ともされる。坂上田村麻呂が奥州進攻の途上、この地の悪竜を退治し、桓武天皇の勅によって伽藍が造営された。その後北条政子が再興したとも言われる。明治十一年(1878)に災害にあったが再建されて現在に至る。
 この付近では毎年7月1日に近郊の人々が小麦のまんじゅうを食べ、小麦ガラを焼いて家族がお尻をあぶる風習がある。これは田村麻呂は始め悪竜をみつけることができなかったが、千手観音へ加護を祈ったところ真夏というのに大雪が降った。雪を嫌う悪竜がみずからの隠れ場所の雪を溶かしてしまったので、田村麻呂は容易に悪竜を見つけ、ついに退治をしたのであると。まんじゅうは軍兵の食糧、尻をあぶるのは彼らが寒さをしのいだ故事によるという。
 所蔵の明版大蔵経は貴重な文化財でもある。
 本尊千手観音像は毘首羯磨の作という。毘首羯磨は本来は古代インド神話上の工巧神である。
 御詠歌は
  後の世のみちを比企見の観世音
   この世を共に助けたまえや」


 東松山市のインターチェンジから東に行った場所に寺院はありました。大東文化大学東松山キャンパスが目印になります。

 山門になります。
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 登っていきます。
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 「坂東十番霊場」と刻まれた石標になります。
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 境内は山の中にあるといった感じで、鳥のさえずりが聞こえ、森林浴になります。

 地蔵菩薩と遍路大師です。
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 境内には元亨二年(1322年)鋳造の銅鐘がある鐘楼堂がありました。
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 埼玉県指定文化財になっています。

 鐘楼堂からの眺めです。
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 観音堂へ向かう途中に薬師堂と地蔵堂があります。

 薬師堂になります。
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 薬師如来が本尊になり、中武蔵薬師霊場の札所本尊になります。

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 地蔵堂になります。
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 こちらは関東百八地蔵尊霊場の札所本尊になります。

 観音堂になります。
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 手水舎になります。
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 御朱印は、本堂の右側にある「庫裡」で頂けました。「千手観音(坂東霊場・七観音霊場)」と「地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場)」、「薬師如来(中武蔵薬師霊場)」の4種類があります。御朱印代は各300円でした。お地蔵様・お薬師様の御朱印は、汎用の御朱印帳でも頂けます。
 
 御守り(500円〜)や御札(四種類、各1,000円)といった授与品はありました。叶念珠を一体頂きました。
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 坂東の公式納経帳(1,100円or1,700円)、寺院名の金箔が押されたオリジナル御朱印帳?が二種類(1,500円or1,700円)がありました。




寺院名:巌殿山 修善院 正法寺
所在地:埼玉県東松山岩殿1229番地
宗 派:真言宗智山派
本 尊:阿弥陀如来
通 称:巌殿観音
札所等:坂東三十三観音霊場 十番札所
    関東百八地蔵尊霊場 十三番札所
    武州八十八ヶ所 三十一番札所
    七観音霊場 千手観音
御詠歌:後の世の道を比企見の観世音 この世を共にたすけ給へや

巌殿山修善院正法寺 坂東札所(埼玉県東松山市岩殿)5

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 埼玉県東松山市にお寺はありました。

 最寄り駅は、東武東上線「高坂駅」になります。徒歩では1時間位かかるそうですが、高坂駅西口より川越観光バス「鳩山ニュータウン」行に乗車、「大東文化大学」にて下車して、お寺までは徒歩で約10分位かかるそうです。

 お寺専用の駐車場は、門前にありました。自動車は5〜6台位は停められそうです。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(雄山閣出版刊『日本名刹大事典』による)。
「真言宗智山派、岩殿山、修善院。別称は岩殿寺、通称は岩殿観音。坂東三十三観音霊場の十番札所。本尊は千手観音。もと観音堂の別当寺。
 『巌殿山千手観世音来由緒記』によれば、養老二年(718)沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音を安置し、傍らに正法庵を結んだのが開創で、後に坂上田村麻呂が奥州征討の途次に比企山の悪竜を千手観音の霊験で退治し桓武天皇十五年に伽藍を建立した。暫くして堂舎は零落したが、正治二年(1200)源頼朝の志をついだ平政子が再興し、左衛門督入道を別当に任じたと伝える。
 古くは比叡山末の寺院で、堂塔のほかに多数の坊舎を擁する大寺であったらしい。しかし、天文頃から勝呂大智寺(現坂戸市)が別当正法寺を兼務し真言宗に改めた。
 永禄年中に戦乱で諸堂を失ったが、天正二年(1574)までに大智寺俊遍の弟子栄俊が護摩堂などの伽藍を復興して正法寺の中興開山となり、真言法流無量寿院流(松橋流)を汲む寺院として再興され一山内の支配権を確立した。
 天正十九年(1591)11月、徳川家康から観音堂領二十五石を寄進された。
 寛政七年(1795)『新義真言宗本末帳』によれば本寺醍醐寺無量寿院、門徒六ヶ寺。
 年中行事に、田村麻呂の悪竜退治に因む7月1日の『けつあぶり』がある。
 六面幢は県文化財。」

 また、東京堂出版刊「古寺名刹辞典」によると次の通りです。
「埼玉県東松山市岩殿1229。巌殿山と号し、岩殿観音の通称がある。真言宗智山派。坂東十番霊場。
 養老二年(718)沙門逸海が正法庵という草庵をこの地に結んだのが始まりという。また役行者が開いた修験の寺ともされる。
 坂上田村麻呂が奥州進攻の途上、この地の悪竜を退治し、桓武天皇の勅によって伽藍が造営された。その後北条政子が再興したとも言われる。明治十一年(1878)に災害にあったが再建されて現在に至る。
 この付近では毎年7月1日に近郊の人々が小麦のまんじゅうを食べ、小麦ガラを焼いて家族がお尻をあぶる風習がある。これは田村麻呂は始め悪竜をみつけることができなかったが、千手観音へ加護を祈ったところ真夏というのに大雪が降った。雪を嫌う悪竜がみずからの隠れ場所の雪を溶かしてしまったので、田村麻呂は容易に悪竜を見つけ、ついに退治をしたのであると。まんじゅうは軍兵の食糧、尻をあぶるのは彼らが寒さをしのいだ故事によるという。
 所蔵の明版大蔵経は貴重な文化財でもある。
 本尊千手観音像は毘首羯磨の作という。毘首羯磨は本来は古代インド神話上の工巧神である。
 御詠歌は
  後の世のみちを比企見の観世音
   この世を共に助けたまえや」


 東松山市のインターチェンジから東に行った場所に寺院はありました。大東文化大学東松山キャンパスが目印になります。

 山門になります。
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 本堂へ続く門です。
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 本堂になります。
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 本尊である阿弥陀如来になります。

 観音堂へ向かいます。
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観音堂へ向かう途中に薬師堂と地蔵堂がありました。
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地蔵堂は、関東百八地蔵尊霊場の札所本尊になります。

 弘法大師と地蔵菩薩です。
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 観音堂になります。
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 坂東三十三観音霊場十番札所の千手観音が祀られています。
 御仏籤の自販機があります。

 また、おびんずるさま(撫で仏)がいらっしゃいました。
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 やっぱりお酒が供えてありました。

 観音堂からみる崖です。
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 境内は山の中にあるといった感じで、鳥のさえずりが聞こえ、森林浴になります。
 しかし、晩秋の感じがしていますので、物悲しい感じもします。

 境内には元亨二年(1322年)鋳造の銅鐘がある鐘楼堂がありました。
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 埼玉県指定文化財になっています。

 授与所には、御守り(500円〜)や御札(四種類、各1,000円)といった授与品はありました。
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 色々種類がありますので、必要な方はどうぞ。

 また、坂東の公式納経帳(1,100円と1,700円)、寺院名の金箔が押された御朱印帳が二種類(1,300円と1,500円)がありました。
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御朱印は、本堂右側にある納経所で頂けました。「観音様」と「お地蔵様」の二種類があります。御朱印代は各300円です。
 御朱印を頂く際に坂東三十三観音霊場の御御影を一体頂きました。100円になります。
 



寺院名:巌殿山 修善院 正法寺
所在地:埼玉県東松山岩殿1229番地
宗 派:真言宗智山派
本 尊:阿弥陀如来
通 称:巌殿観音
札所等:坂東三十三観音霊場 十番札所
    関東百八地蔵尊霊場 十三番札所
    七観音霊場 千手観音
御詠歌:後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に たすけ給へや

箭弓稲荷神社(埼玉県東松山市箭弓町)5

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 埼玉県東松山市の中心部に神社は鎮座していました。

 最寄り駅は、東武東上線「東松山駅」になります。西口から徒歩で5分位かと思われます。

 駐車場は、一の鳥居をくぐり参道左側にありました。自動車は、十数台位は停められそうです。


 こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「埼玉県東松山市箭弓町」の旧県社。神社本庁別表神社。祭神は保食神(うけもちのかみ、宇迦魂命)。例祭は3月初午の日、9月21日。
 3月の初午大祭は三日間の火伏神事が行われる。牡丹祭りは4月下旬から5月初旬までの15日間で一千本以上の牡丹が咲き誇る。
 社伝によれば、長元元年(1028)に平忠常が下総で乱を起こし、源頼信が追討を命じられた。当地に一泊した。そのとき、白狐に乗った神人が現れて弓箭を授ける霊夢をみた。頼信は凱旋してから一祠を建立したという。
 元和二年(1616)に、領主の松平家が幕府に願い出て社殿を造営した。また、天海大僧正を招いて福聚寺を草創して別当とした。
 明治維新により現社号に改めた。」

 また、國學院大学日本文化研究所編「神道辞典」によると次の通りです。
「〈祭神〉宇迦魂神(うかのみたまのかみ)
 〈例祭日〉9月21日 〈神事〉初午大祭、火伏神事、牡丹祭
 〈由緒〉社伝によれば、長元元年(1028)下総に起きた平忠常の乱に際して、追討の命を受けた源頼信は、この地に白狐に乗った神人から弓箭(ゆみや、弓矢)を授かる霊夢を見たという。また、勝利をおさめた頼信が箭弓稲荷大明神と称して社殿を建立したのが創建とされる。元和二年(1616)、領主松平氏は社殿を造営し、天海を迎えて福聚寺を建立、これを別当にあてた。明治の神仏分離で別当を廃し、現社号に改称した。商売繁盛、開運の信仰で知られ、関東有数の牡丹園がある。
 〈旧社格〉県社(大正十一年)」


 関東の稲荷神社では、有名な部類にはいる神社ではないかと思われます。

 一の鳥居です。
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 二の鳥居です。
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 三の鳥居です。
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 こちらが社殿になります。
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 境内の左側にある牡丹園は来月中旬頃からの開園になります。おそらくはゴールデンウィーク中は見頃かもしれません。その頃の参拝をお薦めします。

 境内の右側には「團十郎稲荷」が鎮座していました。
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 御朱印は、境内の右側にある「授与所」で頂きました。御朱印代は300円でした。
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 御守りや御神札(一体500円)等の授与品がありました。

 牡丹の柄が入った御朱印帳が800円でありました。大きさは横12cm×縦18cmになります。





神社名:箭弓稲荷神社
鎮座地:埼玉県東松山市箭弓町二丁目5‐14
祭 神:保食神(うけもちのかみ)
通 称:やきゅうさま
社格等:旧県社 別表神社

巌殿山 修善院 正法寺(埼玉県東松山市)5

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埼玉県東松山市にある「巌殿山 修善院 正法寺」に参拝してきました。
真言宗智山派に属するお寺になります。

言わずと知れた「坂東三十三観音霊場」の札所になります。

関越自動車道「東松山インターチェンジ」から西へ行ったところにお寺はありました。

駐車場は、山門の右側ありました。
自動車は、5〜6台位は停められそうです。
他にも駐車場があるかどうかわかりません。


こちらのお寺の由緒は、次の通りです(案内板より)。
「真言宗智山派の寺院で、岩殿山修善院といい、また、岩殿寺ともいう。
源頼朝の命により、比企能員が復興した古利であり、天正二年(1574)僧栄俊が中興開山となっている。
天正十九年(1591)徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられた。
観音堂は養老年間(717〜724)僧逸海の創立と伝えられ、正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。
延暦10年(791)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅令によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に夜通し悪龍を退治した伝説がある。」


石段をあがっていくと、山門がありました。
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「仁王像」がありますので、「仁王門」といったほうが良い間もしれません。
元は運慶作の仁王像でしたが、平成四年に解体修理した際に運慶作の仁王像は焼失した事がわかり、文化年間に作製したことがわかったそうです。

扁額です。
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「巌殿山」と「施無畏」と刻まれています。
古そうな扁額です。

まだ登っていきます。
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途中には「制札」がありました。
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こちらが案内板です。
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戦国時代の松山城主が、巌殿観音一帯の草木を切るのを禁じた札だそうです。

登りきると「坂東十番霊場 巌殿山正法寺」と刻まれた石碑がありました。
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誇らしげに建っています。

境内は、山の中にあるといった感じで、鳥の鳴き声が聞こえ、とても雰囲気は良かったです。

お地蔵様と遍路大師がいらっしゃいました。
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今もなお修行をしているわけですね。

こちらは、鐘楼堂になります。
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「銅鐘」は、元亨二年(1322)作になり、埼玉県指定重要文化財になっています。
「鐘楼」は、元禄十五年(1702)作になり、東松山市指定重要文化財になっています。

「観音堂」になります。
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(´人`)

坂東三十三観音霊場の札所本尊の「千手観音」を祀っています。続きを読む

箭弓稲荷神社(埼玉県東松山市)5

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埼玉県東松山市にある「箭弓稲荷神社」に参拝してきました。
旧県社になります。
現在は、神社本庁の別表神社になっています。

こちらの神社は、東松山市の中心部に鎮座していました。

最寄り駅は、東武東上線東松山駅になります。
徒歩では、西口を出て、約3分位になります。

道路沿いに大きな鳥居がありました。

駐車場は、一の鳥居の左側にありました。
自動車は、十数台停められそうです。

境内は、綺麗に整備されており、すがすがしく、とつも雰囲気は良かったです。

社殿です。
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「権現造」になります。
祭神は、「保食神」になります。
天気が良かったせいもあり、参拝客もいらっしゃいました。

こちらの神社は、和銅五年(712年)の創建になります。
平安時代、平忠常が謀反を起こしたとき、朝廷は源頼信が「野久稲荷神社」に戦勝を祈願したところ「箭(矢)」の形をした雲が敵を射るかのように飛んでいき、後日、戦に勝利したそうです。
その後、「野久稲荷神社」を「箭弓稲荷神社」と改称し、現在に至ります。続きを読む
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日本のまほろばを探して社寺を参詣してます。社寺参詣道代表師範&御朱印ブロガーです。伊勢神宮・靖国神社・世良田東照宮・久能山東照宮・鳳来山東照宮の各崇敬会に入会しています。 取得資格:普通自動車免許、2級ファイナンシャルプランニング技能士、日商簿記検定2級、秘書検定2級、神社検定参級、全経電卓検定3級、安全衛生推進者
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