神社仏閣史跡巡り

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。

榛東村

黒髪山神社(群馬県榛東村)3

1d105719.jpg

群馬県榛東村に鎮座する「黒髪山神社」に参拝してきました。

高崎市の北にある自衛隊の演習場の近くに鎮座しています。

「井戸尻」という交差点の近くにある、溜め池の反対側に神社の看板と鳥居がありました。

これといった最寄り駅はないので、自動車で行かれた方が良いかもしれません。

駐車場は見当たりませんでした。
自動車は、鳥居前に2台位は停められそうです。

こちらの神社は、上毛三山の一つ榛名山にある「相馬山」を御神体とする山岳信仰の神社になります。
相馬山は、別名「黒髪山」というため「黒髪山神社」という神社名になったようです。

上毛新聞社刊「上州のお宮とお寺 神社篇」には、以下が書かれていました。
「相馬山には、日本武尊が、東夷征伐の時に登ったという伝説もあります。
また尭恵も北国紀行に
たが袖の秋の別れか櫛の歯の 黒髪山ぞなまくしぐるる
と詠んでいます。
黒髪山は“くらおかみ”、すなわち雷電の発生する山である。
〈中略〉
この地帯の人達が、この雷に対していただいた恐怖は、われわれの想像以上である。
それと同時に、水源神としての信仰心も認められるのである。
ただし、山に対する信仰心は、山の頂上において礼拝することから発生したものでは無いように思える。
山を仰ぎ見ることのできる所で礼拝ははじまったのである。
いわゆる里宮が先に生まれたと思える。」


また、榛東村役場のホームページには、以下の由緒が掲載されていました。
「相馬山は山岳信仰の霊山として厚く信仰されていた。
しかし、険阻なため老人、婦女子には登拝が困難なため里宮建立の気運が高まり南和十郎ほか地元の有志が発起人となり、山頂に社を造営したのち、明治20年現在地に神道修成派上野祠(黒髪山神社)を完成した。
節分、二年参りなどの祭典には講社によって村内は勿論、前橋、高崎方面からの信者で賑わう。
祭神は大山祇命。」


こちらの神社の周辺は、かなり長閑になります。
しかし、こちらの神社に来る途中に自衛隊の演習場があるため、大きなレーダーが数基あるのが見えました。
何だか周辺の風景に似つかわしくない感じもしましたが、仕方ありません。

こちらの神社は、「群馬名所百選」に選ばれている神社だそうです。
1518da60.jpg

こちらが鳥居になります。
452bff8c.jpg

右側には、神楽殿がありました。
30538cc4.jpg

境内に入ると「講」と思われる石碑が多くありました。
「光正霊神」・「喜元霊神」・「天流摩夜天宮」と刻まれていました。どのような「講」なのかは、全くわかりませんですし、あえて調べません。興味もないですし・・・

また、手水舎の隣にも「講」のものと思われる石碑が多くありました。
何だか異様な感じもしましたが・・・
その碑の写真を撮る気がおきませんでした。

唯一撮ったのが「御嶽山神社」の碑です。
b861daa8.jpg

いわゆる「御嶽教」の講の碑でしょうか・・・
社殿の左側にありました。

参道を進んでいきます。
546d7c20.jpg

石段を上がり左側には、赤松がありました。
b4023f2f.jpg

ずいぶん立派です。

先に進んでいきます。続きを読む

船尾山 等覚院 柳澤寺(群馬県榛東村)5

a3338eb4.jpg

群馬県高崎市の北にある榛東村にある「船尾山 等覚院 柳澤寺」に参拝してきました。
天台宗に属するお寺になります。

これといった最寄り駅はないので、自動車で行かれた方が良いかもしれません。

駐車場は山門の左側にありました。
自動車は、数十台位は停められそうです。


こちらのお寺の由緒は以下の通りです(お寺のホームページより)。
「この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」と言う、一章の記載です。
更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。
そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
天台宗宗祖傳教大師の東国順境のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って、榛名山中の船尾の峰に、妙見院息災寺と言う巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。
本尊千手観音をお祭りし、子授け観音として有名になりました。
その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が、霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、
一子相満若が産まれました。
常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。
やがて相満は立派な若者に成長しました。
ある時、榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日に
さらってしまいました。
父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで
隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。
寺側との行き違いから争いとなり、全山消失してしまったそうです。
その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。
それから後を追って、池に身を投げて死んだと言う事です。
神道集の説話と、船尾山縁起のそれとは、違っていますが、昔、榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う、土着の古伝説を基盤に、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が、多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。
天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として、中世には、学僧も多く出現したといいます。
戦国時代末、北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を消失しました。
江戸時代に入り、天海僧正、高崎城主 安藤右京進などの尽力により、朱印地三十石を賜り、再建に着手。
貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
現在、境内地約三万平方米。
戦後、参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立は、その中に散在する諸道に色を添えています。
諸堂並びに庫裡は、大正元年〜七年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが、破損著しく、昭和55年より、2年にわたり、大修理がなされました。」


御朱印を頂いたのはだいぶ前ですが、平成25年4月6日に再度参拝してきました。
境内の桜は満開でしたが、散り始めていました。
やはり、写真撮影をしている方々もいらっしゃいました。

こちらが全景です。
d0dec459.jpg

随分広いです。

こちらが山門になります。
d64e1093.jpg

なかなか大きな山門です。
仁王像が配されているので、仁王門と呼んでもいいかもしれません。

山門に掲げられた扁額です。
27500971.jpg

誰が書いたのでしょうか?

山門をくぐると、碑がありました。
4257703f.jpg

よく見ると、庚申塔のようです。

また、お地蔵様や羅漢様がいらっしゃいました。
6a1b4e71.jpg

baeedc81.jpg

ba668191.jpg

先に進むと、左側に「鐘楼」がありました。
1ba47052.jpg

また、宝篋印塔がありました。
08207566.jpg

いつごろのものなのでしょうか?

こちらが「二十一夜念仏供養塔」になります。
98256f2a.jpg

こちらもいつごろのものなのでしょうか?

観音堂の周辺には、十三仏の像が配されていました。
そのなかの一佛です。
e46b4aba.jpg

不動明王立像です。続きを読む
記事検索
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
Amazonライブリンク
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
カテゴリ別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログトピックス
J-CASTニュース
  • ライブドアブログ