神社仏閣史跡巡り

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。

高崎市

於菊稲荷神社 再拝(群馬県高崎市新町)5

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 群馬県高崎市の東部に神社は鎮座していました。

 最寄り駅は、JR高崎線「新町駅」になります。
徒歩では、10分位かかりそうです。

 駐車場は、参道にあります。自動車は、3台位は停められそうです。


 こちらの神社の由緒は、次の通りです(由緒書きより)。
「群馬県多野郡新町橋場町に古くより鎮座いたします稲荷神社は天正十年(1582)8月小田原城主北条氏政と厩橋城主滝川一益と神流川原に於いて、天下分け目の決戦を行いたる時、北条氏は、先祖以来の守護神稲荷の社頭に戦勝祈願をいたしました。その甲斐有りて大勝利を得た北条氏政は、御神徳の偉大さに感激し小祠を立派な社に再建して報賽の誠を捧げ当社の起源となりました。
 その後、時移り太平の徳川の御代となりて、新町宿にも幾多の妓楼が立ち並ぶようになりました。宝暦年間(1751〜)大黒屋の娼妓於菊は、新潟の貧農の娘であったが、美貌で気だてもよく、新町随一の売れ妓ともてはやされていた。
 稲荷神社に日参りする多くの娼妓達のなかでも、於菊は特に熱心なる信者でした。また子供好きで、境内で遊ぶ子供達にいつも、あめ菓子を買い与えたり一緒に遊んであげたりと子供達親達にとても慕われておりました。しかし、ふと風邪をこじらせた於菊は、ついに足腰たたぬ病となってしまいました。これをとても心配した子供達の親は日頃から於菊が信仰していた稲荷神社に小屋を建て看病を三年間続けました。彼女の信心、親達、子供達の願い遂に神に通じてか、ある夜半枕辺に稲荷の霊あらわれ不思議に病気も全快いたしました。人々は喜び合って神の恵みと感謝し、彼女は一生涯神明奉仕と世の人々の為に尽すことを決意し稲荷社の巫女となりました。
 巫女となった於菊は、日々の神明奉仕を続けるうちに神の霊移ってか神秘的な力を授かりました。彼女の言葉は、天候をはじめとして世上の事の予言また困っている人の手助けをしておりました。そして人々は、口々に『困った事は稲荷の於菊に聞けばよい』『於菊に聞いて稲荷に参ればよい』と言われておりました。於菊の稲荷、稲荷の於菊と誰言うとなく於菊稲荷神社と呼ばれる様になりました。
 その後、益々神社は弥栄えて文化文政から、嘉永初旬まで最も隆盛を極めました。遠くは江戸、横浜、長崎からも参拝する者多く、中には吉原の遊女、歌舞伎の名優、両国の力士、詩人、名僧等枚挙にいとまもありません。社に残る数々の文化財は昔時を語る宝物です。当社に心願をかける時は、何事によらず叶いて、開運、幸運に結びつくことでしょう。」


 桜井識子さんの本で紹介された神社になります。それなので訪れる方々が多くなりました。

 稲荷神社らしい鳥居になります。
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 社殿は新築になり、新しくなりました。
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 神楽殿になります。
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 御朱印は、見開きのものを頂きました。御朱印代は500円です。





神社名:於菊稲荷神社
鎮座地:群馬県高崎市新町247番地
祭 神:倉稲魂命 於菊
社格等:旧村社
URL:http://www.maroon.dti.ne.jp/okiku/

室田之瀧不動尊 大福寺(群馬県高崎市中室田)5

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 高崎市を北部、中室田地区にお寺はありました。

 国道406号線沿いにお寺はありました。しかし、国道からは直接は入れません。
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 ↑看板を目印にしてください。この看板から舗装されていない道を進むとお寺はあります。

 駐車場はありました。

 こちらは薬師堂になります。
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 薬師如来が本尊になります。

 こちらが不動堂になります。
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 室田之瀧不動尊が祀られています。北関東三十六不動尊霊場の札所本尊になります。

 こちらが授与所になります。
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 おみくじや御守りがありますが、閉まっています。寺務所に声をかけて下さい。

 御朱印は、寺務所で頂けました。御朱印代は300円でした。






寺院名:秀厳山 龍水院 大福寺
所在地:群馬県高崎市中室田町5558
宗 派:天台宗
本 尊:大聖不動明王
通 称:室田之滝不動尊
札所等:北関東三十六不動尊霊場 三番札所
御詠歌:人びとを 救いて守る 明王の 榛名の山も 近くなりけり

成田山高崎分院光徳寺 再拝(群馬県高崎市成田町)5

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 群馬県高崎市の中心部にあり、成田山新勝寺の高崎分院になる寺院になります。
 
 最寄り駅は、JR両毛線・高崎線・八高線「高崎駅」になります。

 駐車場は、境内にありました。自動車は、数台は停められそうです。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(上毛新聞社刊『ぐんまのお寺 真言宗供戮茲螳貮抜粋。)
「(前略)
 成田山光徳寺・竜宝堂の本山は、千葉県の成田山新勝寺で、新勝寺は成田不動尊と呼ばれ、939年僧寛朝が平将門の乱のときに、高雄の神護寺に祈願し、乱後一宇を建てたもので、元禄年間(1688〜1704)照範が中興し本堂を建て、多くの信者を得るようになったという。
 また、明治初年、中山道高崎宿本町の境屋旅館の館主後藤安五郎は、成田山新勝寺のあつい信者で、烏川〜利根川を舟で半月もかけて参詣を続けていた。
 明治十年(1877)、高崎藩が廃され城跡が陸軍用地となるに及んで、城中西南隅の大河内輝貞の祈願所、威徳寺を買いうけ、当地へ移転し、明治四十年(1907)6月、北甘楽郡一ノ宮町田島村の天台宗施無畏寺へ合併されるまで、千葉県の成田山新勝寺の末寺であった。合併後現在まで、威徳寺の内陣は光徳寺本堂東に建てられており、市指定の重要文化財となっている。
 同四十五年(1912)埼玉県児玉郡児玉町より現在の光徳寺を現在地へ移転したという(名目のみとか)。時の住職松本宥海。移転当時、周囲は皆水田、本町二丁目から参道を開削したといわれている。
 『上野国寺院明細帳』によれば、光徳寺の由緒は

 天正十一年(1583)北条ノ臣、八幡城主横地左近将監吉晴ノ建立。開山定栄法印、光徳寺ト号ス。天明三年(1783)類焼ニ罹リ、古書類焼失。同四年担徒ノ寄附ヲ以テ再建ス。
 明治四十五年(1911)2月20日、埼玉県児玉郡児玉町児玉ヨリ移転ス

とあり、さらに『昭和六年(1931)7月、多野郡美里町本動堂新義真言宗智山派医王寺(現存せず)持ノ阿弥陀堂移転合併、境内附属仏堂トセリ』とある。
 阿弥陀堂は、本堂西側に現存するが、移転当時高崎駅近くの大工町から(聖徳)太子堂も移転合併され、大工職の人々からあつく信仰されており、(聖徳)太子堂の名前で親しまれている。
(中略)
 本堂内の本尊は、大日如来・不動明王ならびに矜羯羅童子・制咤迦童子である。
 当寺の檀徒は7戸、信者1,276人と『明細帳』には記載されているが、現在は檀徒らしき者はなく、その時々に参詣に訪れる不特定多数の信者のみで、テレビの普及によってか減少傾向である。
 元来、智山派の寺は祈願所で檀家はなく、葬式もおこなっておらず墓地もない。
 したがって寺の運営財源は、初詣・節分・春秋の大祭・毎月28日の縁日などの参詣者のお賽銭・護摩札などの売上げ、駐車場賃貸料なとの収入によるという。
(後略)」


 高崎市の中心部、周辺は住宅や会社がある場所に「高崎成田山」はあります。といっても、境内はとても静かでした。

 入り口になります。
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 不動明王が持つ剣がありました。
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 本堂は2階にあり、階段を登っていきます。
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 1階は、寺務所兼庫裡になります。

 本堂に向かって左には「太子堂」がありました。
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 「聖徳太子」が祀られており、建築業関係の方々に信仰があると思われます。

 御朱印は、1階の「庫裡」で頂けます。御朱印代は300円(納経帳)、500円(北関東三十六不動尊霊場専用納経軸)になります。北関東三十六不動尊霊場の御御影は頂けました。

 庫裡には御守りや御札といった授与品がありますので、頂きたい方は申し出てください。
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 私は「身代御守り(一体700円)」を頂きました。





寺院名:成田山 高崎分院 光徳寺
所在地:群馬県高崎市成田町23番地
宗 派:真言宗智山派
本 尊:大日如来 不動三尊
通 称:高崎成田山
札所等:北関東三十六不動尊霊場 五番札所
御詠歌:光徳寺 うごかずの尊 とこしえに くにの平和と じゆう護らん

白岩観音長谷寺(群馬県高崎市白岩)5

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 群馬県高崎市の北西部、旧榛名町にある寺院になります。

 最寄りの駅やバス停からも遠いので、自動車で行かれた方が良いかもしれません。

 駐車場は、道路を挟んで反対側にありました。自動車は、10台以上は停められそうです。

 
 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(東京堂出版『古寺名刹大辞典』による)。
「群馬県群馬郡榛名町白岩448。白岩山と号す。天台宗(寺門派)。坂東三十三ヶ所霊場第十五番札所。通称は白岩観音。
 群馬県下には妙義山・赤城山・榛名山など修験道の霊山が多い。
 長谷寺にも修験道の始祖役行者開創の伝がある。役行者が修行の場を求めてこの地を訪れた時、烏川の上流で彼を迎える天狗たちに出会った。そこで役行者は従う鬼神どもに命じて利根川の川底より白岩を運ばせ、その岩上に不動明王を祀って修行の地と定めた。その後この岩は地中に沈み、霊地の基盤となったのであるという。
 また別の伝説によれば、役行者ゆかりの地に残る柳の霊木で行基が十一面観音を彫ったことから始まる。あるいは聖武天皇の勅によって行基と徳道上人の二僧が開創したともいう。いずれにしても由緒古い修験の寺といえよう。
 中世より源義家、頼朝、新田義貞らの武将の尊崇を受け、永禄六年(1563)武田信玄箕輪城攻略の兵火に焼失した時には、すぐさま信玄によって堂宇が建立された。本堂は天正八年(1580)武田勝頼の願により無道が建立した。
 学者の研究によると、長谷寺または新長谷寺という名の寺は関東に二十数ヶ所あるという。かつて大和長谷寺が炎上焼失した時、修興の資金集めに各地に活躍した勧進聖がこれらの寺の創建に大きく寄与しているといわれている。
 板本尊十一面観音像は平安中期の作といわれ、天然の岩上に立つ。
 御詠歌は、
 たれも皆祈る心はしらいわの
  神世の誓いたのもしきかな」

 また、雄山閣出版刊「日本名刹大事典」によると次の通りです。
「通称白岩観音。金峰山修験本宗、白岩山。本尊は十一面観音。
 徳道・行基(開山)が聖武天皇(開基)の勅命で開創であると伝える。中世の様子も不明な点が多いが、寺伝では源頼朝・新田義貞・上杉憲政・長野業政らが伽藍を修復したが、永禄九年武田信玄が箕輪城を攻略するに当り、当寺を焼き尽くしたと伝える。しかし、坂東観音霊場十五番札所であることから、中世には観音信仰で栄えた寺と推測できる。天正十八年武田信玄の命を受け世無道が再興するが、世無道の宝塔にはその由来が刻まれている(『群馬県史』資料編八・中世四金石文所収)。
 近世までには修験宗に転じたが、天保四年の宗門改帳によると、六坊から成っており、人数は四十一人と記されている。明治の初めに天台宗に転じ、第二次大戦後舞台修験にもどった。
 文化財として、大般若経の中世の写経、長谷寺縁起絵巻(県立博物館蔵)、中世の宝塔四基のほか県内を代表する木彫を蔵する。
 本尊の十一面観音立像は翻波式の技法の見られる平安後期の作で、県内最古の木彫仏で秘仏とされる。秘仏の前には『前立ち』と呼ばれる木彫十一面観音立像があるが、これは鎌倉時代作である。
 中世の奥書を有する大般若経が五巻ある(『群馬県史』資料編六・および同七所収)。」


 坂東三十三観音霊場の札所と知られています。
 寺号は「長谷寺」と書いて「ちょうこくじ」と読みます。一般的には、「白岩観音」として知られています。
 「金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)」に属するお寺になります。一時期は、天台宗に属していたようです。

 道端にお寺はありました(・ω・)
 通りすぎるところでした。
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 看板が目印になります。

 山門になります。
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 山門をくぐると左側には、石造不動明王立像がいらっしゃいました。
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 先に進むと、本堂があります。
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 御朱印は、ご本尊「十一面観音」と「役行者」の二種類がありました。御朱印代は各300円でした。
 坂東三十三観音霊場の御御影は、一体100円になります。

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 坂東三十三観音霊場の専用納経帳はありました。
 また、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の御札もありました。




寺院名:白岩山 長谷寺(ちょうこくじ)
所在地:群馬県高崎市白岩448番地
宗 派:金峰山修験本宗
本 尊:十一面観音
通 称:白岩観音
札所等:坂東三十三観音霊場 十五番札所
    上州三十三観音霊場 別格霊場
御詠歌:誰も皆な 祈る心は 白岩の 初瀬の誓ひ 頼もしきかな

成田山 高崎分院 光徳寺(群馬県高崎市成田町)5

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 群馬県高崎市の中心部にあり、成田山新勝寺の高崎分院になる寺院になります。真言宗智山派に属しています。
 
 最寄り駅は、JR両毛線・高崎線・八高線「高崎駅」になります。

 駐車場は、境内にありました。


上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 真言宗供廚茲螳貮抜粋。
「(前略)
 成田山光徳寺・竜宝堂の本山は、千葉県の成田山新勝寺で、新勝寺は成田不動尊と呼ばれ、939年僧寛朝が平将門の乱のときに、高雄の神護寺に祈願し、乱後一宇を建てたもので、元禄年間(1688〜1704)照範が中興し本堂を建て、多くの信者を得るようになったという。
 また、明治初年、中山道高崎宿本町の境屋旅館の館主後藤安五郎は、成田山新勝寺のあつい信者で、烏川〜利根川を舟で半月もかけて参詣を続けていた。
 明治十年(1877)、高崎藩が廃され城跡が陸軍用地となるに及んで、城中西南隅の大河内輝貞の祈願所、威徳寺を買いうけ、当地へ移転し、明治四十年(1907)6月、北甘楽郡一ノ宮町田島村の天台宗施無畏寺へ合併されるまで、千葉県の成田山新勝寺の末寺であった。合併後現在まで、威徳寺の内陣は光徳寺本堂東に建てられており、市指定の重要文化財となっている。
 同四十五年(1912)埼玉県児玉郡児玉町より現在の光徳寺を現在地へ移転したという(名目のみとか)。時の住職松本宥海。移転当時、周囲は皆水田、本町二丁目から参道を開削したといわれている。
 『上野国寺院明細帳』によれば、光徳寺の由緒は
 
 天正十一年(1583)北条ノ臣、八幡城主横地左近将監吉晴ノ建立。開山定栄法印、光徳寺ト号ス。天明三年(1783)類焼ニ罹リ、古書類焼失。同四年担徒ノ寄附ヲ以テ再建ス。
 明治四十五年(1911)2月20日、埼玉県児玉郡児玉町児玉ヨリ移転ス

とあり、さらに『昭和六年(1931)7月、多野郡美里町本動堂新義真言宗智山派医王寺(現存せず)持ノ阿弥陀堂移転合併、境内附属仏堂トセリ』とある。
 阿弥陀堂は、本堂西側に現存するが、移転当時高崎駅近くの大工町から(聖徳)太子堂も移転合併され、大工職の人々からあつく信仰されており、(聖徳)太子堂の名前で親しまれている。
(中略)
 本堂内の本尊は、大日如来・不動明王ならびに矜羯羅童子・制咤迦童子である。
 当寺の檀徒は七戸、信者1,276人と『明細帳』には記載されているが、現在は檀徒らしき者はなく、その時々に参詣に訪れる不特定多数の信者のみで、テレビの普及によってか減少傾向である。
 元来、智山派の寺は祈願所で檀家はなく、葬式もおこなっておらず墓地もない。
 したがって寺の運営財源は、初詣・節分・春秋の大祭・毎月28日の縁日などの参詣者のお賽銭・護摩札などの売上げ、駐車場賃貸料なとの収入によるという。
(後略)」


 高崎市の中心部、周辺は住宅や会社がある場所に高崎成田山はあります。

 入り口になります。
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 山門はありません。

 手水舎になります。
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 参道を進みます。
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 境内はとても静かでした。

 本堂は2階にあり、階段を登っていきます。
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 1階は、寺務所兼庫裡になります。

 本堂に向かって左には「太子堂」がありました。
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 聖徳太子が祀られており、恐らくは建築業関係の方々に信仰があると思われます。

 御朱印は、1階の庫裡で頂けます。
 御朱印代は300円(納経帳)、500円(納経軸)になります。
 御御影は頂けました。

 庫裡には授与品がありますので、いただきたい方はどうぞ。





寺院名:成田山 高崎分院 光徳寺
所在地:群馬県高崎市成田町23番地
宗 派:真言宗智山派
本 尊:大日如来 不動三尊
通 称:高崎成田山
札所等:北関東三十六不動尊霊場 五番札所
御詠歌:光徳寺 うごかずの尊 とこしえに くにの平和と じゆう護らん
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