最寄り駅は、JR両毛線「岩舟駅」になります。駅からは、北側に見える「岩船山」を目指すとお寺に着きますが、数十分位はかかりそうです。
岩船山の麓から600段もの階段を登ることになります。
自動車で行く場合は、国道50号線で行くと北に「岩船山」が見えますので、わかりやすいかもしれません。山の中腹にお寺専用の駐車場があるります。山の東側から裏参道がありますので、境内の駐車場まで来れます。しかし、自動車のすれ違いが出来ないほどの狭い裏参道なので気をつけて下さい。
こちらの寺院の由緒は、次の通りです。
「岩船山高勝寺(天台宗)
宝亀八年(775)第四九代光仁天皇の御代伯州(鳥取県)大山の僧弘誓坊明願によって、開山された岩船山に関東の高野山日本三地蔵の第一の霊場といわれている。先住民族の間に高い岩肌の出た山に霊魂が集まり、死ぬと霊魂はこの山へ登るという宗教があった。岩船山は、死者の集まる所、霊魂の集まる所として民族学的に非常に貴重な山である。岩船山とは山全体が一艘の船の形をしており、子供の霊を供養する所である。また、位牌がなまって岩船となったともいわれている。本堂は子育子授地蔵としても有名であり、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれている。享保年間に諸堂の大改修が行われ、寛延四年(1751)に三重塔が建立された。その頃、岩船節といわれる念仏が関東一円に流行したといわれ昭和十六・七年頃まであった。
踊り念仏はその名残といわれている。
なお、春秋の彼岸は関東一円より多くの人々で賑わう。
昭和四十七年四月
岩舟町教育委員会」
宝亀八年(775)第四九代光仁天皇の御代伯州(鳥取県)大山の僧弘誓坊明願によって、開山された岩船山に関東の高野山日本三地蔵の第一の霊場といわれている。先住民族の間に高い岩肌の出た山に霊魂が集まり、死ぬと霊魂はこの山へ登るという宗教があった。岩船山は、死者の集まる所、霊魂の集まる所として民族学的に非常に貴重な山である。岩船山とは山全体が一艘の船の形をしており、子供の霊を供養する所である。また、位牌がなまって岩船となったともいわれている。本堂は子育子授地蔵としても有名であり、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれている。享保年間に諸堂の大改修が行われ、寛延四年(1751)に三重塔が建立された。その頃、岩船節といわれる念仏が関東一円に流行したといわれ昭和十六・七年頃まであった。
踊り念仏はその名残といわれている。
なお、春秋の彼岸は関東一円より多くの人々で賑わう。
昭和四十七年四月
岩舟町教育委員会」
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