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 群馬県高崎市の北西部、旧榛名町にある寺院になります。

 最寄りの駅やバス停からも遠いので、自動車で行かれた方が良いかもしれません。

 駐車場は、道路を挟んで反対側にありました。自動車は、10台以上は停められそうです。

 
 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(東京堂出版『古寺名刹大辞典』による)。
「群馬県群馬郡榛名町白岩448。白岩山と号す。天台宗(寺門派)。坂東三十三ヶ所霊場第十五番札所。通称は白岩観音。
 群馬県下には妙義山・赤城山・榛名山など修験道の霊山が多い。
 長谷寺にも修験道の始祖役行者開創の伝がある。役行者が修行の場を求めてこの地を訪れた時、烏川の上流で彼を迎える天狗たちに出会った。そこで役行者は従う鬼神どもに命じて利根川の川底より白岩を運ばせ、その岩上に不動明王を祀って修行の地と定めた。その後この岩は地中に沈み、霊地の基盤となったのであるという。
 また別の伝説によれば、役行者ゆかりの地に残る柳の霊木で行基が十一面観音を彫ったことから始まる。あるいは聖武天皇の勅によって行基と徳道上人の二僧が開創したともいう。いずれにしても由緒古い修験の寺といえよう。
 中世より源義家、頼朝、新田義貞らの武将の尊崇を受け、永禄六年(1563)武田信玄箕輪城攻略の兵火に焼失した時には、すぐさま信玄によって堂宇が建立された。本堂は天正八年(1580)武田勝頼の願により無道が建立した。
 学者の研究によると、長谷寺または新長谷寺という名の寺は関東に二十数ヶ所あるという。かつて大和長谷寺が炎上焼失した時、修興の資金集めに各地に活躍した勧進聖がこれらの寺の創建に大きく寄与しているといわれている。
 板本尊十一面観音像は平安中期の作といわれ、天然の岩上に立つ。
 御詠歌は、
 たれも皆祈る心はしらいわの
  神世の誓いたのもしきかな」

 また、雄山閣出版刊「日本名刹大事典」によると次の通りです。
「通称白岩観音。金峰山修験本宗、白岩山。本尊は十一面観音。
 徳道・行基(開山)が聖武天皇(開基)の勅命で開創であると伝える。中世の様子も不明な点が多いが、寺伝では源頼朝・新田義貞・上杉憲政・長野業政らが伽藍を修復したが、永禄九年武田信玄が箕輪城を攻略するに当り、当寺を焼き尽くしたと伝える。しかし、坂東観音霊場十五番札所であることから、中世には観音信仰で栄えた寺と推測できる。天正十八年武田信玄の命を受け世無道が再興するが、世無道の宝塔にはその由来が刻まれている(『群馬県史』資料編八・中世四金石文所収)。
 近世までには修験宗に転じたが、天保四年の宗門改帳によると、六坊から成っており、人数は四十一人と記されている。明治の初めに天台宗に転じ、第二次大戦後舞台修験にもどった。
 文化財として、大般若経の中世の写経、長谷寺縁起絵巻(県立博物館蔵)、中世の宝塔四基のほか県内を代表する木彫を蔵する。
 本尊の十一面観音立像は翻波式の技法の見られる平安後期の作で、県内最古の木彫仏で秘仏とされる。秘仏の前には『前立ち』と呼ばれる木彫十一面観音立像があるが、これは鎌倉時代作である。
 中世の奥書を有する大般若経が五巻ある(『群馬県史』資料編六・および同七所収)。」


 坂東三十三観音霊場の札所と知られています。
 寺号は「長谷寺」と書いて「ちょうこくじ」と読みます。一般的には、「白岩観音」として知られています。
 「金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)」に属するお寺になります。一時期は、天台宗に属していたようです。

 道端にお寺はありました(・ω・)
 通りすぎるところでした。
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 看板が目印になります。

 山門になります。
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 山門をくぐると左側には、石造不動明王立像がいらっしゃいました。
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 先に進むと、本堂があります。
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 御朱印は、ご本尊「十一面観音」と「役行者」の二種類がありました。御朱印代は各300円でした。
 坂東三十三観音霊場の御御影は、一体100円になります。

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 坂東三十三観音霊場の専用納経帳はありました。
 また、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の御札もありました。




寺院名:白岩山 長谷寺(ちょうこくじ)
所在地:群馬県高崎市白岩448番地
宗 派:金峰山修験本宗
本 尊:十一面観音
通 称:白岩観音
札所等:坂東三十三観音霊場 十五番札所
    上州三十三観音霊場 別格霊場
御詠歌:誰も皆な 祈る心は 白岩の 初瀬の誓ひ 頼もしきかな