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 東京都文京区湯島に寺院はありました。
 隣は、湯島天満宮(通称:湯島天神)になり、男坂を降りて少し行くと左側になります。

 最寄り駅は、東京メトロ千代田線「湯島駅」になります。
 降りて、徒歩ではお寺まで5〜6分くらいかかりそうです。

 駐車場は見当たりませんでした。
 自動車で行かれる方は、周辺の有料駐車場をご利用ください。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(天台宗東京教区HPより)。
「当山はもと湯島天神別当の天台宗喜見院・宝珠弁財天堂と称されておりました。湯島天神は『学問の神様』菅原道真公を祭神としていますが、道真公が太宰府へ左遷されたとき、その冤罪をそそぐため聖天さま(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)に祈念され、その信仰が篤かったために『天満大自在天神』とも言われました。
 ときに江戸の元禄七(1694)年、喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる聖天さまを堂内に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。開基以来、『湯島の聖天さま』として知られ、熱心な信者の参詣があり、紀伊国屋文左衛門も当山に帰依した一人でした。
 享保のころ、寺門維持のため幕府から『富くじ』が発行されました。谷中感応寺(天王寺)、目黒瀧泉寺(目黒不動)、喜見院(湯島天神)が『江戸の三富』と言われ、大いに賑わいました。
 当時の喜見院は相当の境域がありましたが、明治維新の神仏分離令で惜しくも廃寺となりました。当然喜見院弁天堂も影響を受けるところでしたが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、その難を逃れました。単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を『心城院』と改めました。
 当山は、江戸の大火や関東大震災、東京大空襲にも遭うことなく法灯を伝えてきましたが、約三百年の風雪に耐えた堂宇は老朽化しら近年に改修され寺観を一新しました。
 当山には江戸名水の一つ『柳の井戸』があることから『柳井堂』と称され、これについて江戸時代の文献(江戸砂子・御府内備考など)に次のようにあります。

柳の井 男坂下
『この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり』

とあり、美髪・厄除のご利益を求め日々参拝者が訪れています。また関東大震災の折、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水であった為、当時の東京市長から感謝状を受けました。
 また境内の放生池については、同じく江戸時代の文献(御府内備考・江戸志など)に、

宝珠弁財天 男坂下
『江戸砂子にいう、此所の池は長井実盛(後に斉藤別当実盛になる)庭前の池と伝ふ。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり』

とあり、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、今も『亀の子寺』として親しまれております。作家・久保田万太郎は、天神下の一画が好きで、わざわざ鎌倉から当山の近所に引越して来ました。当山に一寸立寄っては『おみくじ』を引たり亀を見たりして一句、『きさらぎや亀の子寺の畳替』と詠みました。
 聖天さまの他に、十一面観音・宝珠弁財天・出世大黒天などの諸仏天を奉安する当山は、江戸三十三観音第七番札所に選定されており、三百年の昔から信仰の篤い参詣者が絶えません。」


 山門はありませんでした。
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 境内は狭いくらいです。
 境内に入ると、すぐ左側には水琴窟があります。
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 右側には「弁財天放生池」があります。
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 また、授与所の前には「柳の井戸」かありました。
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 こちらが本堂になります。
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 本尊の歓喜天、十一面観音(江戸札所の札所本尊)等が祀られています。

 扁額になります。
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 浴油祈祷は行っているようです。ご希望の方は、お寺までお問い合わせください。

 また、「星まつり祈祷」も行われているそうです。
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 必要な方はお寺までお申し込みください。1,200円だそうです。

 御朱印は、昭和新撰江戸三十三観音霊場のものを頂きました。御朱印代は300円です。
 由緒書きはありました。

 御守りやお札といった授与品はありました。
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必要な方はどうぞ。





寺院名:柳井堂 心城院
所在地:東京都文京区湯島三丁目32‐4
宗 派:天台宗
本 尊:大聖歓喜天
札所等:昭和新撰江戸三十三観音霊場 七番札所
札所本尊:十一面観音
通 称:湯島聖天
御詠歌:柳井の 水清くして白梅の 香りかぐわし 湯島のみほとけ