神社仏閣史跡巡り

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。

2016年02月

各願山 来迎院 西慶寺(群馬県太田市鳥山上町)5

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 群馬県太田市にある寺院になります。

 最寄り駅は、東武伊勢崎線「治良門橋駅」になります。徒歩では駅まで15〜20分位はかかりそうです。

 駐車場は、山門手前の左側にありました。自動車は、数十台は停められそうです。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 真言宗機廚茲蝓法
「県道足利・伊勢崎線の石橋十字路から、太田に向かう県道太田・大問々線の東に入った所に真言宗の西慶寺がある。参道から山門に入ると鐘楼門があり、正面に本堂、その右に庫裏、左に不動堂、そして本堂の裏に墓地があり、その入り口には石造の六地蔵と水子地蔵尊がまつられている。
 寺伝によると、西慶寺は日光山を開いた名僧勝道上人が大同二年(807)に開基したと伝える古刹である。その後新田氏の祖新田義重が保元二年(1157)に左衛門督藤原忠雅から新田荘の下司職(げししき)に補任され、寺尾の郷に居住し、西慶寺を鬼門になぞられて祈願寺として尊び、水田を寄進したという。
 時代はさがって、元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉を攻めるに際し、西慶寺の不動明王に戦勝を祈願して陣鎌(じんかま)と鑓(やり)を奉納した。そこで一族は、大挙して義貞軍にはせ参じた。それ故に、この不動尊を『新田の触れ不動尊』と称されている。触れ不動尊の同様の伝承は、尾島町の明王院安養寺にも伝わっている。
 『上野国志』によると、観応年間(1350〜1352)に烏山の右近将監頼仲が良覚法印を中興開山として再興した。古くは延命山鵬鳥山寺と称したが、後に各願山来迎院東蔵坊西慶寺
となり、村田宝蔵寺の末寺となった。一方、西慶寺の創建は南北朝期末の嘉慶二年(1388)だとするが、足利市小俣鶏足寺の『世代血脈』である。
 これによると、第三十一代祖師良覚は上鳥山の峯崎という人物を頼って小庵を構え、村田村宝蔵寺の頼覚を師として仏法を修行し、明徳四年(1393)11月15日に綿打村大慶寺空覚と頼覚の指導を受けて伝法潅頂を執行した。そしてこの小庵の所に西慶寺を建てたとするものである。
 西慶寺は良覚以降、鶏足寺の系統を継ぐ末寺二十五ヶ寺の本寺として寺運が栄えたが、第二十一世真浄代の天明四年(1784)に本堂が焼失したため、天明八年(1788)に再建し、本尊阿弥陀如来三尊を安置した。明治十二年(1879)6月30日調査による『上野国新田郡寺院明細帳』では、本堂間口十間、奥行き七間半、境内2,433坪、不動堂の本尊は不動明王で由緒は不詳、堂宇は方四間、檀徒86人とある。この不動堂は第二十五世浄蓮代の建立で、安置されている不動明王は新田の触れ不動尊で、像高二尺余の木造立像である。顔は悪魔降伏の憤怒の相をし、左手には命あるものを救う象徴の羂索を、右手には降魔の剣を持っている。
 鐘楼門上にある百字真言鐘(梵鐘で、仏陀の教えを百字で表し、五字四行を一区として全部で五百字の梵字による真言を陽鋳したもの)は、西慶寺第十九世祐弘が新田義貞迫善のために寛保二年(1742)二月に佐野天明(栃木県)の長谷川弥市・山崎吉兵衛の鋳造により完成したものである。鐘銘には触れ不動の由来や『新田触不動御仏前、源光院殿後追薦(善)』などの文字や多数の僧名などが鋳出されている。源光院は、義貞の法号である。庫裏は、昭和五十五年(1980)に現在のものに造り変えられた。」


 こちらは山門になります。
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 鐘楼門になります。

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 本堂は新築をするそうです。
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 本堂本尊には真言宗系では珍しい「阿弥陀如来」が祀られています。
 もっとも天台宗の勝道上人が開山したお寺なので、そうかなぁと思います。
 
 境内の左側に不動堂がありました。
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 祀られている不動明王は、新田義貞が鎌倉攻めの際に挙兵したところ、山伏や天狗になり一族に触れ回ったので「新田の触れ不動尊」と呼ばれています。
 こちらの不動明王は、北関東三十六不動尊霊場の札所本尊になっています。

 御朱印は、本堂の右側にある「庫裡(納経所)」で頂けました。
 御朱印代は納経帳には300円、納経軸には500円です。




寺院名:各願山 来迎院 西慶寺
所在地:群馬県太田市鳥山上町1426‐1
宗 派:高野山真言宗
本 尊:阿弥陀如来
札所等:北関東三十六不動尊霊場 九番札所
    上州新四国八十八ヶ所 五十四番札所
    準西国三十三観音霊場 二十九番札所
御詠歌:義貞を 救い護りし明王は 今も自愛の 眼輝く

反町薬師 照明寺(群馬県太田市新田反町町)5

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 群馬県太田市にある「反町薬師 照明寺」に参拝してきました。
 高野山真言宗に属する寺院になります。

 駐車場はありました。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 真言宗機廚茲螳貮抜粋)。
「(前略)
 反町城の本丸跡にある照明寺は最初、元徳年間に新田郡市野井村字杉に建てられた薬師堂を、永禄年間(1558〜1570)に刑部大輔由良成繁の命で慈光坊が反町城西方の元屋敷に移築し、照明寺と名付けて祈願所とした。しかし、正徳四年(1714)11月に、失火のため堂宇のすべてが焼失したため、中興開山の祐泉が成繁の奥方より地料と堂宇造営料として百十五両の寄付を受けて寺を反町城の本丸跡(現在地)に移築造営した。そして義貞の母の法号である『妙光院殿蓮法大禅定尼』から、院号を妙光院とした。
 明治八年(1875)6月の太政官達(たっし)によって編さんされた『上野国郡村誌』では、照明寺は東西二十二間南北三十三間、面積七百三十歩、真言宗村田村宝蔵寺末とあり、明治十二年(1879)6月調査の『上野国新田郡寺院明細帳』では、本堂方四間、鐘楼方一間半、檀徒百五人とある。また、明治三十ニ年(1899)の追記では、庫裏は間口十間奥行き六間一尺、参籠堂は間口四間奥行き二間半としている。
 現在の照明寺は、南の土塁の間に明治四十年(1907)建立の石柱門があり、その周辺に明治二十七年(1894)に建てられた『新田義貞公古城跡』碑、馬頭観音線刻碑、天明八年(1788)4月および昭和三年(1928)12月の建立で、御大典記念の石灯籠がある。石柱門を入ると左手に水屋、その西に大師堂、その北に大きな参籠堂と弁天堂がある。正面の本堂は、明治十一年(1878)に完成したもので、本尊の薬師如来石仏(秘仏)のほか日光月光菩薩、十二神将、不動明王、地蔵菩薩、阿弥陀如来、愛染明王、大黒天が安置されている。本尊は新田家の守り本尊で、行基上人が東北巡化の際、この地方に悪病が流行していたのでそれを除こうとして自ら刻んだと伝えられている。また、明治以降、本尊は『反町薬師』『厄除薬師』『六算除薬師』として人々の崇敬を受け、正月四日の大縁日には四歳児の厄除けをはじめ、交通安全や入学祈願など、多方面の信仰を集めている。
(後略)」

 
 新田義貞公の館跡とされるお寺になります。

 入り口になります。
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 手水舎になります。
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 参道を進むと、正面に本堂があります。
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 本尊の薬師如来が祀られています。いわゆる「反町薬師尊」と呼ばれています。
 祈祷祈願は行われています。本堂右側にある受付があります。

 大師堂になります。
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 上州新四国八十八ヶ所の札所になっています。

 参籠堂になります。
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 鐘楼堂になります。
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 本堂右側の受付では、授与品も頂けます。
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 必要な方は頂いてください。





寺院名:瑠璃山 妙光院 照明寺
所在地:群馬県太田市新田反町町896番地
宗 派:高野山真言宗
本 尊:薬師如来
通 称:反町薬師
札所等:上州新四国八十八ヶ所 六十二番札所
御詠歌:来光の 弥陀の光の 円明寺 照り沿う影は 夜な夜なの月
URL:http://www.sorimachiyakushi.or.jp/

大光山 宝徳寺(群馬県桐生市川内町)5

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 群馬県桐生市の北西部に寺院はありました。

 最寄り駅は、JR両毛線「桐生駅」、上毛電気鉄道「西桐生駅」になります。
 徒歩で行くのは無理ですので、バスをご利用ください。

 駐車場はありました。


 こちらの寺院の由緒は次の通りです(桐生仏教会刊『積善 桐生のお寺』による)。
「宝徳寺は臨済宗大本山建長寺第七十三世仏印大光禅師を開山として、桐生城主桐生正綱公の開基により室町時代の宝徳年間(1450年頃)に創建された禅寺です。
 当山の場所は桐生城(柄杓山城)の裏側に位置し、名久木の砦の入口を見渡す所にあります。これは正綱公が城主を継ぐ以前に此の地に邸宅を構え桐生城の背面の守備の任務を果すと共に、仁田山八郷の守備も受け持っていたと考えられています。
 天明年間の記録によると宝徳寺はニヶ寺の末寺(玄光寺、長徳寺)を有していたとあります。おそらく此の末寺を建て始めたころには、宝徳寺には何人もの雲水(修行僧)も常時いたものと考えられ、寺観も相当威容を示していたものと考えられています。
 江戸中期には当山十七世の天渓和尚が大本山建長寺百八十六代管長を務めました。
 方丈前は枯山水庭園になっています。枯山水とは、室町時代の禅院の『作庭様式』の一つで、水を用いずに、石・砂などにより自然の生命を表現する庭のことです。当山の枯山水庭園は、正面に野趣に富んだ山肌を借景とし、朝には太陽、夜は月さえも庭園の一部に取り入れてしまい、宇宙の森羅万象を写してみることができます。
 方丈脇には枯山水とは異なり、滝と池からなる山水庭園があります。静寂な禅の庭は壮大な宇宙観と融け合い、時代を超えて我々の心と対話し続けています。また5月初旬には境内を数百株のぼたんが彩り私たちの心を和ませてくれます。」


 入り口になります。
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 本堂へ向かいます。
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 鐘楼堂です。
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 本堂を望む。
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 境内は、今日とのお寺を思わせます。キリッとした感じでした。
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 御朱印は、庫裡にて頂けました。
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 複数あり、御朱印代は、各500円です。

 授与品はありました。
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 ご希望の方はどうぞ。



寺院名:大光山 宝徳寺
所在地:群馬県桐生市川内町五丁目1608番地
宗 派:臨済宗建長寺派
本 尊:釈迦牟尼如来

玉村八幡宮 御守り(群馬県佐波郡玉村町下新田)5

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 群馬県佐波郡玉村町にある「玉村八幡宮」に参拝してきました。

 以前の参拝日記は→こちら

 玉村町の中心部、玉村高校・玉村小学校・玉村町役場の近くに神社は鎮座しています。
 神社の南には「日光例幣使街道」が東西にあり、「玉村宿」の中心部になります。

 最寄り駅は、JR新町駅、高崎駅、前橋駅、伊勢崎駅になります。
 玉村八幡宮のホームページによると、JR新町駅より北方へ徒歩60分から90分で着くそうです。また、新町駅や高崎駅からはバスの便があるそうです。

 神社専用駐車場はありました。自動車は、数十台は停められそうです。


 こちらの神社の由緒は、次の通りです(群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著『伊勢崎佐波の神社誌』より)。
「当社は、霊元天皇の貞享四年(1686)、前橋藩の儒官古市剛によって記された『玉村八幡宮本紀(当社所蔵)』によれば、後鳥羽天皇の建久六年(1195)に、源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長をして鎌倉・鶴岡八幡宮より御分霊を勧請して創建した。当町内に鎮座する角渕八幡神社を元宮とする。
 時は下って後陽成天皇の慶長十年(1605)、徳川家の臣で関東郡代伊奈備前守忠次が、当地の新田開発に任あたって『今我荒原を以て熟田と成さんと欲す。附して請い願わくは神霊我を祐(たす)けよ。若しその功成る時は則ち感謝するに神社の造立を以てせん。』とその成就を祈願し、前橋の総社から天狗岩用水を延長する代官堀(滝川用水)を開削して開田するという一大事業が無事竣工した、同十五年(1610)に角渕八幡神社の本殿を移築して現在地に奉斎した。境内地は、伊奈備前守の陣屋(現在の小字名御殿、旧玉村中学校裏手)と開発に協力した和田与六郎の屋敷(現在の玉村高校)に挟まれた中世の環濠屋敷跡とされ、上新田と下新田の境に位置する。
 明正天皇の寛永十五年(1638)、前橋藩主酒井雅楽頭忠清によって修理が加えられ、後光明天皇の慶安二年(1649)八月三代将軍家光より朱印地三十石の神田を賜わる。
 また、前年の正保三年(1646)、朝廷において日光東照宮の神前に金幣を奉呈するために例幣使が派遣された。以来、当地玉村宿は中山道倉賀野宿を分岐とする例幣使街道の第一宿となり、三国街道別路と交差する地の利もあって例幣使街道十三宿中最も規模が大きくて繁盛する宿場となった。
 霊元天皇の寛文七年(1667)、再度前橋藩主酒井忠清によって社殿の修理が成された。貞享元年(1684)には、前橋藩主酒井雅楽頭忠明が新院良仁法王(後西天皇)の御宸筆、『八幡大菩薩』の神號を奉納し、東山天皇の元禄十六年(1703)に修理が加えられた。次いで、中御門天皇の享保十一年、さらに延享四年(1747)の両度、前橋藩主酒井雅楽頭親愛によって修理が加えられた。しかし、桃園天皇の寛延二年(1749)に崇敬篤志家である酒井氏が播磨国姫路に移封されて以降は領主による修理は行われず、以降は七郷十二ヶ村が協議の上『修造講』を興し、その講金に朱印地の収穫を合わせて祭儀の執行と社殿修理に充てるようになり、今日に至っている。
 明治七年村社に列せられ、同四十一年一月三十一日、下新田の無格社諏訪神社・無格社御殿稲荷神社・無格社神明宮、上福島の村社稲荷神社、与六分その稲荷神社を合祀する。また、明治四十一年八月一日には、本殿が内務省より特別保護建造物に指定され、大正十四年九月、県社に列せられた。
 昭和十一年に国の指導のもとに本殿の解体修理が為され、建築の時代考証において室町様式が確認されると共に、貴重な発見がされた。さらに、昭和二十五年八月、文化財保護委員会によって重要文化財に改めて指定されている。」


 国道354号線は門前を走っていましたが、神社の北側に移動し、バイパス?になったようです。
 「日光例幣使街道」沿いにある神社には違いありません。

 街道沿いに鳥居があります。
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 参道を進むと、随神門があります。
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 境内は広くて、清々しく良い雰囲気で、また神威を感じます。
 1月31日に参拝しましたが、赤城下ろしが吹く寒い日でした。

 社殿になります。
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 (´人`)

 境内社の弁天社も合わせて参拝しました。祭神は市杵島姫命になるのでしょう。
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 金運が向上するといいな(・ω・)

 参拝後、授与所にて「大願成就 勝守」を頂きました。初穂料は一体600円になります。
 また、授与所には各種御守り(600円〜)や各種御神札(500円〜)、御神籤等の授与品がありました。
 
 御朱印はあります。また、オリジナル御朱印帳もあります。

 鳥居の近く、日光例幣使街道沿いにある「福嶋屋」は和菓子の老舗になるそうで、以前テレビ東京の土曜日の旅番組「日光例幣使街道歩き旅」で俳優の原田龍二さんが訪れたそうです。また、玉村八幡宮にも参拝したそうです。




神社名:玉村八幡宮
鎮座地:群馬県佐波郡玉村町下新田1番地
祭 神:誉田別命 気長足比売姫 比弯
配 祀:素盞嗚命 健御名方命 大鷦鷯命 熊野久須毘命 大己貴命 倉稲魂命 火産霊命 大日孁命 豊受姫命 菅原道真命 伊弉諾命 伊弉冉命 櫛御気命 瓊々杵命
社格等:旧県社

前橋東照宮 御神札(群馬県前橋市大手町三丁目)5

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 群馬県前橋市にある「前橋東照宮」に参拝してきました。

以前の参拝日記→こちら

 前橋市の中心部、群馬県庁から少し北の「大手町」の交差点の所、前橋公園内に神社は鎮座していました。中央大橋のたもとといった感じです。

 最寄り駅は、JR両毛線「前橋駅」or「新前橋駅」になります。両駅から徒歩では少々かかりそうです。

 駐車場は、境内の北側の道路沿いにありました。自動車は、数十台位は停められそうです。


 菊地清(世良田東照宮々司)著『群馬県内の東照宮』によるとこちらの東照宮の由緒は次の通りです。
「当社の創立は寛永元年6月1日で、御祭神徳川家康公の孫、松平直基(家康公の第二子、結城秀康の五男で大和守と称し、前橋藩主の祖)が越前勝山城内に祭祀したのに創まる。以来、松平氏は十三回に及ぶ移封に遇ったが、その都度奉遷して、藩主をはじめ士民の篤き崇敬を集めて今日に至る。
 即ち、享保二十年には社領二百石が寄進され、また、慶安元年播州姫路、寛文七年播州姫路、元禄五年奥州白河、同十年奥州白河、宝暦四年上州前橋、安永六年武州川越、嘉永八年武州川越においてそれぞれ社殿の造営が行われており、慶安二年武州川越より再び上州前橋に奉遷され明治を迎えた。
 現在の社殿は本殿以下五棟、総て川越より移築したもので、一本の欅の巨木で造られたと伝えられ、用材の美しさは実に見事で、本殿の彫刻は江戸の有名な彫工島村源蔵の作として、知られている。
 明治以降は、旧前橋藩士居住区域八箇町、三千戸の鎮守として崇敬を集めてきたが、昭和四年県社に列せられた。
〈社宝〉能面・能装束・陣羽織・軍扇等蔵し、市重要文化財に指定されている。」

 大修館書店刊「日本の神仏の辞典」によると次の通りです。
「前橋市大手町の旧県社。徳川家康・菅原道真・木之花咲耶比売神ほか二柱を祀る。例祭は4月17日。
 寛永元年(1624)に前橋藩祖である松平直基が越前の勝山城主当時に奉斎され、その後の移封ごとに遷された。
 慶応二年(1866)に前橋に帰還し、明治四年(1871)に遷座した。」

 東京堂出版刊「神社辞典」によると次の通りです。
「群馬県前橋市大手町。旧県社。
 寛永元年(1624)前橋藩の祖、松平直基が越前勝山城主時代に同地に創建、以来二百三十年余り十三回にわたる各地移封の都度遷祀、慶応元年(1865)川越より転領後、明治四年(1871)現在地に遷座した。
 宝物に家康公木像(元和年間作)などがある。
 例祭4月17日。」


 今年の1月30日に参拝してきました。
 前日の夜から雪の予報でしたが、雪はさほど積もらなかったです。

 こちらが鳥居になります。
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 社号標になります。
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 境内に入り、左側には手水舎がありました。
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 手と口を漱いで、参拝です。

 右側には、自動車の交通安全祈願を行う場所がありました。
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 すでに1台停まってました。

 前橋市の中心部に鎮座していますので、境内は狭いくらいです。

 こちらが社殿になります。
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 参拝したときは、社殿ではちょうど祈祷祈願が厳かに行われていました。

 今年は、徳川家康公が逝去してちょうど400年になります。こちらの東照宮でも例大祭(4月17日)は盛大に行うのでしょう。
 祭神は、「徳川家康公」の他に「菅原道真公」も祀られています。慶長六年(1601)酒井重忠が厩橋城に入城したときに祭祀し、その後酒井家の興隆が著しかったので「酒井の開運天神」と言われ、酒井氏の崇敬が篤かったそうです。移封後、養行寺管理を経て合祀になりました。

 賽銭箱の右側には、「祈願木」や「願い文」がありました。
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 初穂料(300円or500円)を納め、左側にある箱の中に納めます。
 神職が吉日に神前において奏文するそうです。

 「御巣鷹忌」になります。
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 境内には「厩橋護国神社」と「営築稲荷神社」が鎮座していました。
 厩橋護国神社です。
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 営築稲荷神社です。
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 文久三年(1863)に前橋城再築城にあたり工事の安全を祈願するため松平直克が勧請した神社になり、祭神は宇迦之御魂神、主な御神徳は商売繁盛と工事安全になります。

 境内の左側にある社務所では、御朱印や授与品が頂けます。
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 今回は御神札を頂きました。一体1,000円でした。
 他にも各種御守り(一体800円)や各種御札(一体500円〜)、絵馬等の授与品はありました。
 社務所前には御神籤がありました。
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 厄除・方位除・交通安全祈願等の祈祷祈願は行われています。必要な方は神社までお問い合わせください。

 御朱印あり。




神社名:前橋東照宮
鎮座地:群馬県前橋市大手町三丁目13‐19
祭 神:徳川家康公 菅原道真公 木之花咲耶姫神 長壁様
社格等:旧県社
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