神社仏閣史跡巡り

日本のまほろばを探して、社寺散策をしています。 社寺散策の日記を中心にいろんなブログを書きます。

2014年04月

三夜沢赤城神社 御神札(群馬県前橋市三夜沢町)5

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群馬県前橋市にある「三夜沢赤城神社」に参拝してきました。
旧県社になります。

群馬県前橋市の北部、旧宮城村に神社は鎮座していました。

以前の参拝日記⇒三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)


こちらの神社の由緒は、次の通りです(境内の案内板より)。
「赤城神社は東国開拓の神々が祀られている古来の名社である。
東国経営にあたった上毛野君の創祀以来 国司 武将が篤く崇敬し朝廷からも承和六年(839年)に従五位下を賜られ 元慶四年(880年)に従四位上にあげられ 延喜式には名神大社に列せられた 長元九年(1028年)頃には正一位に叙せられ 次いで 上野国の二宮とうやまれていた赤城山は高く 美しく うしろに山々をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河川は麓の村々をひろくうるほしている その尊厳と恩恵とはみ山とよはれ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から祀りつかれて来た分社は群馬県下のみで七十八社その他を併せると三百余社に及ぶ 昭和十九年(1944年)には国幣中社に昇格の内定があったが 終戦後は国土建設 開拓精神発揚のため 神威益々顕著である」


こちらの神社は、赤城山をご神体とする「山岳信仰」の神社になります。
赤城山は、上毛三山の一山になります。

鳥居になります。
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二の鳥居だそうです。
木造の鳥居のようですね。

社号標になります。
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境内に入ると、右側には手水舎がありました。
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御神池に手水舎はあります。
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手と口を漱いで参拝です。

境内には、サワラの木がありました。
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結構大きな木です。

参道を進みます。
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右側には、神代文字が書かれた碑がありました。
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こちらが案内板になります。
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参道の左側には、鎌倉幕府三代将軍源実朝が詠んだ歌碑がありました。
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「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」と詠まれています。

こちらが狛犬になります。
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結構いかつい顔をしています。

先に進んでいきます。
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こちらが社殿になります。
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「神明造」になります。
「赤城神・大己貴命・豊城入彦命」の三柱が祀られています。

(´人`)

ここまでくると、何だか森の中に来たようです。続きを読む

二宮赤城神社(群馬県前橋市二宮町)5

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群馬県前橋市に鎮座する「二宮赤城神社」に参拝してきました。

前橋市の東部に神社は鎮座していました。

これといった最寄り駅はありませんので、自動車で行かれた方が宜しいかもしれません。
駐車場は、社務所の前か公民館の所に停められそうです。


神社の由緒は、次の通りです(案内板より)。
「当社ハ、第十代崇神天皇ノ皇子『豊城入彦命』『大己貴尊』ヲ始メトシ、数柱ノ神々ヲ祭神トシ、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇ノ時代ニ創建サレタト伝ヘラレル古社デアル。
特ニ、古代豊城入彦命ヲ始トシタ毛野氏ノ子孫上毛野氏ト深イ縁ノアッタ社トモ伝ヘラレテイル。
平安朝初期ノ第五四代仁明天皇ノ承和六年(829)ニ従五位下ニ叙サレテ官社トナリ、続イテ昇叙ヲ経、第六〇代醍醐天皇ノ延長五年(927)ニ制定サレタ『延喜式』内、上野国十二社中ノ名神大社トサレタ。
第六八代後一條天皇ノ長元々年(1028)頃ノ上野国ノ国司文書中ニ、正一位赤城大明神、上野国神名帳ニハ、上野国二宮赤城大明神ナドノ神位、神階ガ記録サレテイル古名社デアツタ。
第七〇代後冷泉天皇ノ永承四年(1049)ニハ、日本全国ノ諸社中カラ五五社ガ選バレ、神仏習合ノ勅願神社トナリ、当社モソノ一社トシテ、社域内ニ造塔ノ折、心礎(根巻石)内ニ仏舎利(釋迦尊ノ骨片、現存)ガ奉納サレテイタノデアル。
鎌倉時代ニハ征夷大将軍源頼朝ノ崇敬ヲ受ケ、建久五年(1194)当社ナドノ修築ヲ、守護職安達盛長ニ命ジ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成ラガ修築ヲ奉行シタリ、百石ヲ寄進シタト云ウ記録モ見ラレル。
戦国時代ニ小田原城主北條氏政ノ軍勢ニ依ッテ、数多クノ建物ハ打壊サレ、潰滅的被害ヲ受ケ、宝物類モ多ク失ナイ衰微シタ。
天正十八年(1590)北條氏滅亡後、領主トシテ大胡城ヘ入城シタ牧野駿河守忠成、康成父子ヲ始メソノ後厩橋藩主トナツタ酒井氏歴代、江戸時代幕府ノ天領代官藩主松平氏歴代サラニ住民ニ篤ク尊崇サレテキタ。
ソシテ赤城南麓地帯ノ関連神社ノ中心的役割ヲ果シテイタ。」


鳥居になります。
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鳥居に掲げられていた神額になります。
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社号標です。
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4月12日に参拝いたしましたが、残念ながら桜は散っていました。
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満開のときはさぞかし綺麗だったでしょう。

鳥居をくぐると右側には、鐘楼がありました。
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神仏習合的な感じがしました。

境内は、交通量の多い道路から中へ入っているので、とても静かでした。

参道を進みます。
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苔が蒸していますので、気をつけて下さい。

綺麗な花が咲いていました。
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神代橋です。
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渡ると隋神門がありました。
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右大臣・左大臣がいらっしゃいます。続きを読む

西小保方八幡宮(群馬県伊勢崎市西小保方町)3

群馬県伊勢崎市西小保方町に鎮座する「八幡宮」に参拝してきました。
西小保方町に鎮座しているので、便宜上「西小保方八幡宮」とさせて頂きます。

近くには「スマーク伊勢崎」がありました。
このショッピングモールを目印にしてください。

最寄り駅は、JR両毛線「国定駅」になります。

駐車場は、見当たりませんでした。


こちらの神社の由緒は、次の通りです。(群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著 伊勢崎佐波の神社誌より)
「当社は、後陽成天皇の御代、慶長五年(1600)、久永源兵衛が小保方村の領主となり武運長久・領土安穏の祈願の為、戌亥八幡と称えて神田を寄進し、社殿を創建したのに始まる。
その後、久永氏の領地が分けられ、土岐下野守に与えられた。
西小保方、上田二村の産土神となり、領地の崇敬厚く、社殿の修理がなされ幣帛が献上された。
明治六年郷社の社格が与えられ、現在の伊勢崎市波志江の一部及び安堀等の各村を氏子としたが、如何ならずに、村社に列せられた。
明治四十二年十二月、西小保方の雷電神社、上田の琴平神社を合併して今日に至る。」


こちらが鳥居になります。
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社号標になります。
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村社と刻まれていたようですが、郷社からの降格のようです。
どうしてなんでしょうか?

こちらが社殿になります。
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由緒に書かれている久永源兵衛は、江戸時代にこの地を領していた旗本になります。
大東神社の境内に久永氏の陣屋跡がありました。
こちらがその時の日記⇒上野國久永氏陣屋跡

祭日は、4月10日・10月17日になります。

境内社になります。
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「菅原神社(祭神:菅原道真命)」・「赤城神社(祭神:大己貴命)」・「稲荷神社(祭神:宇気母智命)」になるそうですが、どれなのかわかりません。

御朱印対応は、不明です。





神社データ
神社名:西小保方八幡宮
鎮座地:群馬県伊勢崎市西小保方町2
祭 神:誉田別命
配祀神:大雷命 大物主命
社格等:旧村社

成菩提山 極樂寺(群馬県前橋市)5

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群馬県前橋市にある「成菩提山極樂寺」に参拝してきました。
天台宗に属するお寺になります。

前橋市の南部、高崎市に近い所にお寺はありました。

これといった最寄り駅はありません。
できれば、自動車で行かれた方が良いかもしれません。

駐車場は、お寺の入口の前と墓地の前にありました。


由緒
「成菩提山光明院極樂寺は、天台宗総本山延暦寺に属する。貞観六年1月14日(864)慈覚大師の開基とされ、寿永元年(1182)心猷上人の代に至って、源頼朝公が常盤御前菩提のために当院を建立し、その後、建久四年10月11日(1193)に頼朝公所持の阿弥陀如来像(行基作)を下賜されて、常盤御前の廟を修営し、一碑を建立し寺家領を附して、常盤御前の冥福を永く祈願せしめられたという。当山を古くは常盤山と号したとも伝えられている。往時の人は常盤御前の霊を崇めて、常盤御前の碑に接し環濠を周して、常盤弁財天堂を建立し尊崇されて来立ったが、明治の末に取り壊されたと云う。
(中略)
徳川時代には三代将軍家光公より天下御祈祷の寺として、朱印三十五石を受けて、江戸時代末期に及んだ。慶安二年(1649)の朱印状を初めとして八通現存する。
当時は縦横に環濠を周らせて境内地一町余を有し、客殿(本堂)、万日堂(念仏堂)、薬師堂、山王宮、弁財天堂、鐘楼堂、門三ヶ所、庫裡、下庫裡の諸堂宇が建ち、塔頭には来迎坊、安養坊、多門坊、住持坊、地蔵坊の五坊を有し、力丸には法楽寺、矢嶋には西福院、龍門には常蔵院、阿内宿には円明院等の門徒一寺三院を有し甚だ規模広大な寺格であったのである。
明治に至って政令による廃仏毀釈が行われるに及んで、無住になった時もあり往時の建物は荒廃し、寺の什物等も多く散逸したようであるが、次第に先徳と檀徒の有識者によって護持されて来た。
終戦後更に多くの寺有財産が解放されたが幸い檀徒の篤い信仰心によって支えられ現在に至っている。」


源義経の母「常盤御前」の菩提を弔うために創建されたお寺になります。

入口になります。
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門前には水濠がめぐらされています。
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桜の木もありましたが、散ってしまっています。

両脇には、お地蔵様?がいらっしゃいます。
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入ると右側には、観音様がいらっしゃいました。
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鐘楼になります。
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精進童子がいました。
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こちらは、おしろい薬師だそうです。
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諸仏が祀られています。
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境内の右側には紫陽花がありました。
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梅雨の時期に参拝をされるのも宜しいかもしれません。

輪廻車になります。
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宝篋印塔なんでしょうか?
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本堂になります。
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本尊である「阿弥陀如来」が祀られています。

(´人`)続きを読む

瑳珂比神社(群馬県伊勢崎市)3

群馬県伊勢崎市に鎮座する「瑳珂比神社」に参拝してきました。
「さかいじんじゃ」と読みます。

以前の参拝日記⇒瑳珂比神社


由緒は、次の通りです。
「当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521〜1527)とされている。
長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。
後陽成天皇の天正八年(1590)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町になると次第に町並みも形成され慶安年間(1648〜1651)には境町となった。
桃園天皇の宝暦十一年(1761)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年(1766)には石鳥居が建立された。
後桃園天皇の安永二年(1773)社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建設されている。
その後も神域は整備され明治七年(1874)には村社に列された。
明治四十年(1907)九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在の瑳珂比神社と改称し今に至る。」


日光例幣使街道から少し南側に鎮座していました。

一の鳥居になります。
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北側に向いて鳥居があります。
どうしてなんでしょうか?

社号標になります。
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「當所総鎮守 瑳珂比神社」とありますが、旧境町の総鎮守という意味なんでしょうか?

二の鳥居になります。
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手水舎になります。
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手と口を漱いで参拝です。

4月5日に参拝してきましたが、桜が満開です。
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とても綺麗です。

社殿になります。
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東向に社殿が建てられています。
横からでないと全景が撮れません。

(´人`)

社殿の左側には、稲荷神社が鎮座していました。
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境内社になります。

稲荷神社の右側にもお社がありました。
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お狐様が奉納されているので、こちらも稲荷神社なんでしょうか?

社殿の裏側には、境内社が鎮座していました。
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それぞれの社名はわかりません。続きを読む
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