群馬県館林市にある「館林長良神社」に参拝してきました。
旧郷社になる神社になります。
館林市の中心部、第一中学校の近くに神社は鎮座していました。
最寄り駅は、東武伊勢崎線「館林駅」になります。
徒歩では、15分位はかかりそうです。
駐車場は、境内の右側にあります。
自動車は、10台位は停められそうです。
こちらの神社の由緒は以下の通り(由緒書きより)。
「祭神藤原長良公は贈太政大臣藤原冬嗣公の長子で、権中納言兼左衛門督に任ぜられ、東国平治のため下向常に民衆を憐れみ、病を癒し、貧を救い、仁恵を施した。
任満ちて帰京の後、斉衡三年七月三日(856)御年五十五才で薨去す。
後元慶元年(877)左大臣正一位、重ねて同三年(879)太政大臣を贈られた。
死後貞観十一年三月十八日(869)大和国春日大社の末社に列せられた。
時に上野の住人赤井良遠なる者が長良公の余徳を慕い、本国に勧請せんと奏聞し、勅許を得て佐貫荘長柄郷瀬戸井村上ね森に社殿を造営した。
以後佐貫の人民をはじめ郡内の人民の振興深く、分社するものが多く赤井山城守照光館林城主となるや、天福元癸巳年(1233)天福寺境内に社殿を造営して当地に勧請する。
爾来領主代々氏子の崇敬厚く、社殿を修復し、境内の整備につとめ、社地の寄進当があり祭事の興隆に努力せられた。
享保五年(1720)正一位長良大明神の宣旨を賜り、明治六年一月郷社に列し長良神社に改称する。
最近祭神長良公の余徳を慕い氏子をはじめ遠近より参拝するものも多く、館林惣鎮守として社頭殷賑を極めている。」
こちらが一の鳥居です。
社標になります。
一の鳥居のずいぶん前にありましたが、こちらから先が神社なんでしょうか?
どうなんでしょう・・・
こちらは二の鳥居です。
意外とこぶりな鳥居です。
郷社なのでそうなんでしょう。
山道を先に進むと、説明板がありました。
ふむふむ。
こちらが手水舎です。
手と口を漱いで、参拝です。
こちらが社殿です。
春日造りの社殿になります。
藤原長良公が主祭神になります。続きを読む
旧郷社になる神社になります。
館林市の中心部、第一中学校の近くに神社は鎮座していました。
最寄り駅は、東武伊勢崎線「館林駅」になります。
徒歩では、15分位はかかりそうです。
駐車場は、境内の右側にあります。
自動車は、10台位は停められそうです。
こちらの神社の由緒は以下の通り(由緒書きより)。
「祭神藤原長良公は贈太政大臣藤原冬嗣公の長子で、権中納言兼左衛門督に任ぜられ、東国平治のため下向常に民衆を憐れみ、病を癒し、貧を救い、仁恵を施した。
任満ちて帰京の後、斉衡三年七月三日(856)御年五十五才で薨去す。
後元慶元年(877)左大臣正一位、重ねて同三年(879)太政大臣を贈られた。
死後貞観十一年三月十八日(869)大和国春日大社の末社に列せられた。
時に上野の住人赤井良遠なる者が長良公の余徳を慕い、本国に勧請せんと奏聞し、勅許を得て佐貫荘長柄郷瀬戸井村上ね森に社殿を造営した。
以後佐貫の人民をはじめ郡内の人民の振興深く、分社するものが多く赤井山城守照光館林城主となるや、天福元癸巳年(1233)天福寺境内に社殿を造営して当地に勧請する。
爾来領主代々氏子の崇敬厚く、社殿を修復し、境内の整備につとめ、社地の寄進当があり祭事の興隆に努力せられた。
享保五年(1720)正一位長良大明神の宣旨を賜り、明治六年一月郷社に列し長良神社に改称する。
最近祭神長良公の余徳を慕い氏子をはじめ遠近より参拝するものも多く、館林惣鎮守として社頭殷賑を極めている。」
こちらが一の鳥居です。
社標になります。
一の鳥居のずいぶん前にありましたが、こちらから先が神社なんでしょうか?
どうなんでしょう・・・
こちらは二の鳥居です。
意外とこぶりな鳥居です。
郷社なのでそうなんでしょう。
山道を先に進むと、説明板がありました。
ふむふむ。
こちらが手水舎です。
手と口を漱いで、参拝です。
こちらが社殿です。
春日造りの社殿になります。
藤原長良公が主祭神になります。続きを読む
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